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「民俗芸能と震災」を考える本 立ち上がり生きる人々の願い

三陸国際芸術祭で披露された岩手県大船渡市の永浜鹿踊り=2016年8月、青森県八戸市

 信じ難いが、もう七回忌を迎える。祖父母、父母、夫や妻、子ども、恋人、友……そしてかつてのふるさとの風景と海への祈りのとき。あの津波の日、宮城県気仙沼市にあるリアス・アーク美術館の学芸員だった川島秀一さんは、燃えさかる炎に「気仙沼はもう終わった」と思った。翌日、やっとの思いでたどり着いたそこに、家はなかった。
 川島さんは長らく日本のカツオ漁を追ってきた。気仙沼の漁師は、大漁になると印の旗をあげ、「大漁唄(うた)い上げ」を歌いながら港に戻ってくる。和船の時代、唄いで艪(ろ)の調子を揃(そろ)えた。浜では、カツ節に加工するために釜で湯を沸かす女たちが今か今かと待っている。二百~四百匹は三節、五百~千匹は五節、千匹以上は七節になる唄い上げで、釜の数を設(しつら)えた。やがて、川島さんの中で、村の寄り合いと「唄い込み」が重なっていった。浜の子どもは、小正月に家々の門口で唄い込みをすることで、浜の暮らしをおぼえた。浜の翁は教えてくれた。大漁は神のおかげであり、神や自然に謙虚であれ、と(『津波のまちに生きて』)。

村自治の基盤

 地域に伝わる民俗芸能の多くが被災した。一時は休止したものの、沿岸部の浜降(お)り神事や神楽、虎舞、鹿(しし)踊りといった祭りは、続々と復活をとげた。ガレキに埋もれ余震の続く中、地域の再興を願う人々、文化財ネットワークや企業が支えとなった(高倉浩樹、滝澤克彦編『無形民俗文化財が被災するということ』新泉社・2700円)。民俗芸能の復活は、人々が生きるために必要な村自治の基盤なのだが、その意味はあまり認識されていない。
 また一方、原発災害の影響で全町避難となった福島県浜通り地域の祭りの継承は困難を極めている。避難先での再興が難しいのは、祭りが土地や海と一体となっているためだが、原発災害地域における文化財の記録と継承は、今後の課題である。
 『万葉集』には狩られた鹿が自らの身体を捧げようと言祝(ことほぎ)を語る姿が詠まれており、これが歌だけではなく身ぶりも伴っていたのではないかと考えたのは折口信夫だった。さらに、歴史家の林屋辰三郎は、古代東北の蝦夷(えぞ)征討のために建設された前線の村(柵戸〈さくこ〉)へ移民となった多くのホカイビトの中の誰かが、鹿踊りを遺(のこ)したのではなかったかと推論した。ホカイビトとは、地方から租税を運んで都へ上ったが、故郷へ帰ることがかなわず、やがて市を巡りながら言祝でしのいだ人々のことである。天変地異のみならず、政治のあり方ひとつで、人々は岐路に立たされる。

危機経て継承

 もっとも、創造された芸能がその土地に根差すには、さらに熟成期間が必要で、土地の生業や村存続の危機といった出来事を経てはじめて継承/伝統化されるのであろうから、宮城県北や岩手県一円に広まった鹿踊りが現在のようなかたちになるまでにはさらに数世代の年月を必要としたことだろう。土地に根ざす芸能とは、人間への鎮魂のみならず、森羅万象への祈りであり、また立ち上がって生きようとする人々の願いである。
 『YOKAI NO SHIMA』には、獅子や鹿、猿あるいは鬼を象(かたど)った様々な土地の精霊が収録されており、それは奇怪で畏(おそ)ろしい姿だが、どこかユーモラスで笑ってしまう。列島の多様な神々の出自は、ひとつではない。
 南三陸の詩人須藤洋平は、祝言と呪言のはざまでもがきながら今日も詩を書き続けている。
 「穏やかな海にしぶきをあげてもぐり/私たちは何度も何度も/死ぬ真似(まね)をしながら生きてゆく」(『あなたが最期の最期まで生きようと、むき出しで立ち向かったから』「合掌」より)=朝日新聞2017年3月5日掲載