ニューヨークのツインタワーに2機の旅客機が突っ込んだ2001年9月11日、タワーのすぐ近くで取材していた。崩壊するビルから、こけつまろびつ逃げた。世界が終わる、と思った。自分の日常生活、仕事、すべてに意味を見いだせなくなった。世界は狂ったのだ、と。
2016年11月9日、アメリカ大統領選挙の日。同じ思いを抱いた人も、少なからずいた。
そうではない。こんなことは今までもあったし、これからもあるに違いない。大事なのは生きることに、希望をもつことに、飽きないことだ。働け、いつものように。ディグニティー(尊厳)のために――。
そう歌ってきたのが、ボブ・ディランだ。
ディランは、デビュー当初から自らの経歴を偽り、世界をけむに巻いてきた。本人による自伝『ボブ・ディラン自伝』こそが、神話や伝説をはぐ“正典”になるはずだが、ディランの場合は一筋縄ではいかない。1960年代から、89年のアルバム録音時のエピソードまでをつづったものが現在出ている第1部だが、時系列に従って書いたものではない。時間を自在に行き来する。
毎日生まれ直す
曲作りに興味をなくし、引退を考えたころの記述が興味深い。「自分はもう終わりだ、燃えつきてしまったうつろな残骸だ」と雨の中をさまようディランは、「行くあてのない列車の最後の停車駅のように見え」た、小さな店で立ち止まる。名もないジャズシンガーが、少ない客の前で歌っていた。突然、気付く。自分も、前は、このように歌っていたのだ。
よくできた短編小説のようでもある。このまま曲になりそうな、詩的な場面。ディランの「歌」が、ここにもある。
萩原健太の『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』(Pヴァイン・1944円)は、ディランの音楽とがっぷり四つに組み、歌の響きの奥底まで耳を澄ます。音楽プロデューサーでもある著者らしく、曲の構造や出自、背景に照度の高い光を当て、初心者にも分かりやすく解説する。ディスコグラフィーとして、現在望みうる最高峰。
湯浅学の『ボブ・ディラン』は、その生涯を多数の文献を読み込んで追う。ディランの代表作には借用した旋律や詩などが多いことは知られている。しかしフォークソングは「もともと過去の曲の転用や借用から別のものを創作することが普通」で、それが「ボブの詩作を気分的に楽にした」と指摘する。
その後ディランは、ロックやブルース、ゴスペル、ジャズ、そしてパンクやラップも含めたアメリカ音楽の巨大な沃野(よくや)を、時代とともに変わりつつ、転がっていく。喜劇音楽にも詳しい著者だけに、コメディアンや喜劇旅演芸の影響にも目を配り、河内音頭との類似さえ指摘する。「毎日生まれ直している。つまり、毎日が死だ」。最終章、ディランが乗り移ったかのような書きぶりが鬼気迫る。
新たな「草の葉」
ディランはノーベル文学賞を受賞する。ディランの歌詞の、どこが文学なのか。2015年に死去した詩人の長田弘は、アメリカ音楽にも詳しかった。自ら編んだ最後のエッセー集『幼年の色、人生の色』でも、ディランについてつづる。ディランの歌を十九世紀アメリカの詩人ホイットマンになぞらえ、「現在進行形で書き継がれている、二十一世紀アメリカの新たな『草の葉』」と書く。「歌う、聴くというふたつの行為が落ちあう場が歌」なのだ、と。
混迷の大統領選が終わった。いまのアメリカでも、どこかでだれかが、ディランの詩・音楽・歌と落ちあい、新しい意味と慰撫(いぶ)と希望とを、探りあて、聴き、歌い継いでいるはずだ。=朝日新聞2016年11月20日掲載