私の幼時から学生時代までの五人の家族(父母兄姉)のうち、長兄以外の四人はすべて下戸だった。酒が弱くて、少量でもひどい不快感に襲われる体質だった。私も同様なので、酒は飲まなかった。それでも大学に入ると、周囲の多くがまだ未成年なのに酒を飲みはじめるので、私も懸命に努力してみたが、まるきり進歩はなかった。
ちょうどその時分に、自分にはどうしても入手して聴きたいジャズのレコードと、観(み)たい映画と、読みたい本が並外れて多数あることに気づくようになった。その二者択一の岐路で、私はあっさりと自分の人生から酒を切り捨てることにした。嫌いな酒を飲まないことには何の努力もいらなかったが、友人や知人との付き合いに多少気を使うだけのことだった。かくして二十歳になる前に完全に断酒して、今日に至っている。お蔭(かげ)で、聴けなかったレコード、観られなかった映画、読めなかった本はただの一つもない。
大学を出て上京してから、私はジャズ・ピアニストの道を志したが、やがて断念し、映画製作の現場に出入りしたが、やがて遠ざかり、小説を書こうと試みたが、なかなか成果をあげられず、十八年後に故郷に舞いもどった。その間も、レコードと映画と本に対する興味は、増大することはあっても減少することはなかった。レコードではジャズに加えて、モーツァルトの全作品を聴いてみようという願望まで加わった。映画はなんと映画館だけではなく、ヴィデオ機器の登場で、もう一度観たい映画や未見の映画が一気に出現することになった。読みたい本はすべて読み尽くしていたが、小説を書こうとすると読書の対象はさらに拡(ひろ)がらざるをえなかった。
だから、東京での十八年の生活は、酒をのまないだけではなく、毎日の食事にも当然影響をおよぼして、まず空腹ではいられないというだけの食事が原則となった。
本稿の依頼を受けたときにあらかじめお断りしたのだが、私はやはり書くべきエッセイのコラムを間違えているようで、これは口の幸福ではなく、せいぜい耳の幸福や眼の幸福でしかないものになりそうである。
人生における大事な楽しみの一つをおろそかにしてしまったわけだが、負け惜しみならある。二十代の半ばに四日間ぶっ通しで、寝る間も惜しんで読んだドストエフスキーの『悪霊』の無類の面白さに没頭していたとき、外出するのも面倒でずっと食べ続けたあんパンと牛乳の食事は、私にとっては口福の絶頂だったことは間違いない。=朝日新聞2018年8月4日掲載
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