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乳幼児を笑いに笑わせた「だるまさん」 伝説の絵本作家・かがくいひろし原画展開催

文:加賀直樹

 「あの時、絵本編集者たちが皆、驚いて、かがくいさんのもとに殺到したんです。『これは凄い人が出てきた』って。2005年、彼が50歳で新人賞を受賞した時のことでした」

 絵本などを手がける出版社・ブロンズ新社の沖本敦子さんは当時をそう振り返る。かがくいの千葉県松戸市の自宅に駆けつけた沖本さんを前に、彼は無印良品の茶色い再生紙ノートを差し出した。それは、ラフスケッチが詳細に描かれたアイディア帖だった。

「『こんなの、どうだろう』って、かがくいさんがその時に見せて下さった画が『だるまさん』の原形にほぼ近いスケッチでした。今までにない着想で、可愛らしくて、動きと音とリズムで見せていく。展開もとっても可愛かった。私たちはその完成度の高さに感激して、『これ! そのまま、これで行きましょう!』。即座に出版が決まったんです」

「だるまさん」シリーズのラフスケッチ。ユーモラスなフォルム案はそのまま生かされた(加賀直樹撮影)
「だるまさん」シリーズのラフスケッチ。ユーモラスなフォルム案はそのまま生かされた(加賀直樹撮影)

 こうして08年1月、『だるまさんが』刊行。だるまさんが転んだり、おならしたり、ビヨーンと伸びたり縮んだり。「だ・る・ま・さ・ん・がー」から始まるページをめくるたびに、無限に続く大喜利の世界が乳幼児の心をわし掴みにし、人気は瞬く間に広がった。読者から寄せられた感想カードの熱量がそれを物語る。

「長い間、読み聞かせをしてきましたが、この本ほど直接的に子どもの心を掴むのは初めて」(60代、保育士)

「4歳の娘に大ウケ。エンドレスで読まされる羽目に」(30代、パート)

「子どもが初めて話した言葉が『だるま』でした」(20代、主婦)

 のちに3部作となった『だるまさん』シリーズは、その全作品がミリオンセラーを記録。わずか4年の絵本作家活動にも関わらず、かがくいは五つの出版社から計16冊もの本を出版し、どの作品ものちに版を重ね、今もなお売れ続けている。ただ、絵本作家としての彼の創作はたった4年で幕を閉じてしまった。あまりに早かった。

 沖本さんは今回の展示に際し、彼の家族や他社の担当編集者たちと連携を取り、かがくいのプロフィールをまとめ、会場で一覧できるようにした。紐解いてみると、子どもたちに愛され続ける、彼の創作の原点が手に取るように分かってきたという。

『だるまさんが』(ブロンズ新社)より
『だるまさんが』(ブロンズ新社)より

 かがくいは東京都新宿区戸塚町生まれ。建築士の父、主婦の母のもと、3人きょうだいの末っ子として育った。界隈には豆腐屋や畳屋、氷屋などが軒を連ね、元気な職人たちが行き交っていた。幼き日のかがくいは大工に憧れていたという。

 高校時代は美術部に入部。のちに東京芸術大の彫刻科を目指すようになった。予備校で彫刻とデッサンを本格的に学ぶものの、上野の森の門はなかなか狭く、3浪する羽目に。その間、うどん店や新聞配達、害虫駆除などのアルバイトなどに明け暮れていた。

 1976年、進路を修正し、東京学芸大教育学部美術科に入学し、彫刻を専攻。その研究室で妻・久美子さんと出会う。在学中は家庭教師、子ども美術教室の先生など、数多くのアルバイトで生活費を稼いだ。障害のある身内がいたこともあって、障害児教育に興味を持ったかがくいは、養護学校(当時)の教員免許を取得。大学卒業と同時に久美子さんと結婚した。

特別支援学校教員時代のかがくいさん(左)。子どもの隣で寝転びながら絵本を読み聞かせる(ブロンズ新社提供)
特別支援学校教員時代のかがくいさん(左)。子どもの隣で寝転びながら絵本を読み聞かせる(ブロンズ新社提供)

 久美子さんの手記によると、かがくいの人物評はこうだ。
 「温かく、包み込むような人柄で、オープンマインド。その場で居心地悪そうにしている人をちゃんと見ていて、冗談を言ったりして、ふっとその場を和ませ、相手の心を自然に開かせるのが上手でした」

 千葉県松戸市の養護学校で、子どもたちと向き合う日々が始まった。肢体不自由の子どもが音を出せるベルの装置をつくったり、寝たきりの生徒に口でパスタやそうめんなどを折ってもらい、それを素材に絵本をつくったり。担当する子どもたちの発達や状態に合わせ、その教育方針を模索する毎日に明け暮れた。

 「いろいろとお話を伺ううちに、人柄がフラットで、優しくて、子どものことを知り尽くしておられたことがあらためて分かってきました。決して偉ぶらない。何なら『いじられキャラ』だったようです」(沖本さん)

 卒業時には毎年、子どもたち一人ひとりの表情をこまやかに描いた似顔絵を、全員にプレゼントしていたという。

特別支援学校では生徒の自宅で教育することも。即興で歌を奏でる(ブロンズ新社提供)
特別支援学校では生徒の自宅で教育することも。即興で歌を奏でる(ブロンズ新社提供)

 かがくいは、職場仲間の教員たちと人形劇場も立ち上げた。水道ホースや傘の柄など、身近な日用品に目を付け、発達の遅い子どもたちも楽しめるように音やリズム、動きで見せる演劇構成を試み、人気を博した。この時に描いた人形劇のコンテが、のちの絵本の構想にも繋がっていく。同時に、デッサン、コラージュ、立体造形物、愛する家族のスケッチ。かがくいは、さまざまな表現形態の模索を続けていった。妻の久美子さんは言う。

 「作家としての創作欲求は突き動かされるような激しいものがあり、情熱的で気高いところがありました。大学時代からずっとかがくいのことを見てきましたが、創作活動に向ける情熱とエネルギーは『ふつうの人じゃないな』という感じでした」(手記より)

 そして彼の茶色い「アイディア帖」は膨大な冊数にのぼっていった。

 「ノートを枕元に置き、思いついたら寝たまま描いていたそうです。『これ、面白くない?』って奥様にアピールして。絵本作家デビューされてからは編集者にも『ちょっと面白いのがあるんだけど、見る?』って。そこから企画が進んでいきました。やり取りしていたメールの文章も切り貼りしておられました」(沖本さん)

『おふとん かけたら』(ブロンズ新社)より
『おふとん かけたら』(ブロンズ新社)より

 生徒たちのために手作りしていた絵本を、ある時、同僚から薦められコンテストに応募し、それが佳作になった。そしてとうとう2005年。「人間なんかに食べられたくない」と考えた鏡もちが逃げ出し、一所懸命走っているうちに、おなかがすいてしまい……。そんなユーモラスな絵本『おもちのきもち』が新人賞を受賞し、かがくいは遅咲きのデビューを果たす。以降、教員の仕事と認知症の母の介護の合間を縫い、異例のスピードで絵本の刊行が続いた。

 09年、28年間務めた教職を早期退職。絵本創作に専念するためだった。この頃はつねに絵本制作を同時進行していたほどの人気ぶりだった。ところがその年の9月、腹部に痛みを訴えた彼は、救急車で搬送され、わずか5日後、膵臓がんで急逝した。54歳だった。

 あまりにも急なその死に、関係者は大きな衝撃を受けた。呼吸を少しずつ整え、まわりを見回せるようになった今、沖本さんはあらためて彼の功績を振り返るようになったという。

 「とにかく愛情が深かった。プリミティブに、子どもが喜ぶことを28年間、特別支援学校を通じて研究し続けてこられた。そのエッセンスが作品に凝縮されているんです。稀有な『人となり』を今、伝えていかなければと思ったんです」

 こうして開催にこぎ着けた原画展では、「だるまさん」シリーズなどの原画約70点、家族のスケッチ展示のほか、約80冊のアイディア帖や未刊の絵本ラフ、立体造形作品、教員時代の手づくり教材などを併せて紹介。各出版社の担当編集者の協力のもと、社をまたいだ全16冊の展示・販売が初めて実現した。教員時代に撮影したユーモア溢れる動画も上映されている。かがくい先生直伝の工作体験コーナーもあり、早世の絵本作家の生きざまを立体的に実感できる展示となっている。

原画展の会場では、刊行に至らなかった作品の構想段階のスケッチも展示(加賀直樹撮影)
原画展の会場では、刊行に至らなかった作品の構想段階のスケッチも展示(加賀直樹撮影)

 そんな彼の創作の根底には、子どもたちへの深い愛情と同時に、どこか世の中を憂う部分があった。沖本さんは言う。

 「子どもが喜ぶポイントを知り尽くし、そこをじかに押してくれる。笑わせたい、喜ばせたい思いに満ちている。在りし姿を発信することで、たとえば今の世の中のニュースで不安になっている人、怖い思いをしている人たちが、少しでも温かい気持ちになってくれたらと思っています」

 妻・久美子さんも手記でこう綴っている。
 「16冊の絵本には、『大変なときだからこそ、笑って肩の力をぬいてやっていこうね』という彼の優しさが宿っています。かがくいの人柄そのものの絵本が、ひとりでも多くの読者の方に届くと嬉しく思います」

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