私があまり食事に気を使わなくなった原因の一つは、小説家になる二年ほど前に七十六歳で亡くなった母の影響があると思っている。こう書けば、女性の社会進出が盛んな現今では、きっと料理が下手な母か、ほとんど家庭料理をつくらない母だったのかと思われそうだが、そんなことはなかった。
生まれてからずっと、大学の街で一人暮らしになるまでの十七年以上、小学校の給食以外のほとんどすべての食事は母の手によるものだった。父の収入も普通以上だったから、贅沢(ぜいたく)な食事とまではいかないまでも、いつもおいしい食事を食べさせてもらった。遠足や運動会の弁当や、好みのメニューを注文してよい誕生日の食卓は非常に楽しみだった。だから、順当にいけばおいしい食事をとることが人生の楽しみの基本だと考えるようになっても不思議はないところである。
私の母は、その祖父から父と続いた商家の娘だった。しかも五人姉妹の長女である。公社員だった父と結婚するまえは、呉服屋からあらゆる商品も扱う田舎の大店に変化していたので、寄宿する使用人も多かった。そういう商家での食事は、まず・さっさと片付ける・ものである。三度の食事の前後にも忙しい仕事が控えている。使用人にそれを要求して、家人である娘たちがだらだらと食事をしていては示しがつかない。長女である母はその家風を身にしみて体得させられたようで、末子である私が小学校にあがる時分には、すでに父母兄姉だけの五人家族の食卓になっているのに、母の考えの根柢(こんてい)にはその家風がしっかりと残っていたのかもしれない。
私や次兄が、誕生日のカレーやちらしずしなどを「おいしい」などと評しようものなら、「じゃあ、いつものおかずはおいしくないのか」と応(こた)える。いつものおかずが「おいしい」と評したときは、「わたしがこしらえたんだから、おいしいに決まっている」と応えていた。それらの母の言葉に対して、何か言い返そうとしていると「さっさとご飯をすませて、自分の部屋へ行ってしまいなさい」と一喝される。
私は母とのそういう会話がとても好きだった。食事のときに限らず、すべてがその調子だった。幼い子供はどんな話をしようと親との会話が大好きなのである。少なくとも反抗期までは。
私にも当然反抗期は訪れたが、反抗期の前と後で、母と私のあのような常温無湿タイプの会話はほとんど変化しようがなかった。
思えば、母は一度も私をほめることはなかったし、私は母にほめられるような息子ではなかった。母が私のことを好きだったかどうかは私の口から言えることではないが、私はそんな母が大好きだった。=朝日新聞2018年8月25日掲載
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