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「書きたい」人々 小説家・磯﨑憲一郎

横尾忠則 暗夜光路 2001年 原美術館蔵
横尾忠則 暗夜光路 2001年 原美術館蔵

優れた才能、見極める力を

 Jリーグで活躍するプロサッカー選手が、とつぜんテノール歌手になったという話は聞かないし、売れっ子のファッションデザイナーがオリンピックでのメダル獲得を目指して、フィギュアスケートの練習に励んでいるという話も聞いたことがない、そんな無謀な越境の挑戦など試みられなくて当然なのだが、ところが挑戦の対象が小説となると、なぜだかその当然が当然ではなくなるらしい。文芸書が売れない、若者はもう小説なんて読まないといわれるようになって久しいにも拘(かか)わらず、他の分野で名を成した人物が小説を執筆し、出版する、という話は今でもしばしば耳にする、それはなぜなのか? もちろん著者の知名度の高さに応じた販売部数増を期待する出版社側の思惑はあるのだろうが、しかしそれだけでは有名人が次々に、多忙ななか執筆時間を捻出しそれなりの労力を費やしてまで、わざわざ小説を書きたがる理由として足りない。
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 これは日本に限っての話かと思っていたのだが、そうでもないようだ。アメリカで最も有名な映画俳優、そして監督の経験も持つトム・ハンクスによる小説集『変わったタイプ』(小川高義訳、新潮クレスト・ブックス)が出版された。ニューヨーカー誌に掲載された短篇(たんぺん)「アラン・ビーン、ほか四名」は、自宅の裏庭で高校時代の仲間とビールを飲んでいた主人公がふと夜空を見上げた拍子に、月への周回旅行を思い立つ、仲間はそれぞれの特技や職業を生かして、軌道を計算し、ホームセンターで資材を調達する、中古の宇宙船も百ドルで手に入れ、四人が乗り込んだロケットはいよいよ発射される……そんな物語なのだが、もしもこれがトム・ハンクスの書いた作品ではなかったとしたら、果たしてニューヨーカー誌は掲載しただろうか? 邦訳の単行本まで出版されただろうか? 率直にいって、難しいのではないかと思う。「窓の地球とならんで何百枚も自撮りした」「青と白を継ぎはぎした生命の星」といった素人のブログ的な紋切り型表現が散見されるし、手作りロケットで月へ行くという突拍子もないアイデアを専門的な知識で中途半端に補強しようとするので、全体に凡庸なSFめいてしまっている。収録されている他の短篇もどこか、こんな風に書けば小説らしく見えるだろう、という執筆態度が透けて見えてしまうのだが、ただ「心の中で思うこと」「過去は大事なもの」といった作品からは、作者がこれを書かねばならなかった拘(こだわ)りと怒りが感じられる。
 「春、死なん」(群像十月号)の作者、紗倉まなは現役の人気AV女優であり、群像の目次にも「高齢者の性を描く」などと煽(あお)るような文句が並べられているのだが、この作品の核はそこではない。妻に先立たれ、二世帯住宅に住んではいるものの息子家族との交流はほとんどない、七十歳の主人公の、周囲には理解されない心身の不調の苦しみと、年齢を重ねても抜け出せない業(ごう)のようなものが、臆することのない筆致で描かれている。説明過多の会話や、展開の安易さといった欠点はあるものの、「所有する箱の中に、必ず消費されるエネルギーがきちんと整列しているのは、どこか自分の身体の内部を見ているよう」「血が繋(つな)ぎとめるたしかな後ろめたさ」などの鋭く斬り込む表現は、作者が小説家に必要な洞察力の持ち主であることを示している。
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 何割かのイリュージョンを含みながら、小説、もしくは小説家という肩書きに対する憧れは、今の時代でもまだかろうじて残っているのかもしれない。しかしこれこそ当然のことだが、小説は作文とは違う、文章が書けさえすれば小説も書けるというわけではない、テノール歌手やフィギュアスケート選手と同様、小説家も一種の才能職なのだ。幾つかの先例が示す通り、音楽や美術、芸能の分野で活躍する人々の中にも、優れた小説を書く才能は間違いなく存在する、だからこそ編集者や出版社には、目先の話題性になど惑わされずに、その真の才能を見極める力が求められている。=朝日新聞2018年9月26日掲載