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「風の演劇 評伝別役実」 デラシネから生まれた不条理劇 朝日新聞読書面書評から

評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2018年11月03日
風の演劇 評伝別役実 著者:内田洋一 出版社:白水社 ジャンル:芸術・アート

ISBN: 9784560096505
発売⽇: 2018/08/23
サイズ: 20cm/357p

風の演劇 評伝別役実 [著]内田洋一

 私的なことだが、昭和30年代に京都の同志社大で4年間、演劇に没頭した。J・ジロドゥからJ・アヌイ、田中千禾夫の「マリアの首」などと向き合い、最終的には自作を書いての学生生活だった。
 全国の大学演劇の噂が耳に入ってくる。早稲田の「自由舞台」はスタニスラフスキーの実践劇団だとか、彼らはコッペパンを食べて頑張っているなどと聞かされた。何人かの名前も知った。
 大学を卒業して9年、私はノンフィクションの第1作『死なう団事件』を発表した。
 まもなく別役実氏がこの本を参考にして作品(「数字で書かれた物語」)を発表し、文学座のアトリエ公演を行うというので、私も氏と2、3度会った。同時代を共有した会話を交わし、そして公演を見た。そのときの衝撃は忘れられない。
 才能のレベルが違う。私の中で創作劇を書こうという気持ちは一気に萎えた。別役氏の作品には、不条理劇、あるいは前衛劇の方向が明確に示され、日本の演劇界の先駆たる役割を担う意気込みがあった。しかも早稲田の自由舞台を知る者には、社会主義リアリズムとの訣別も感じられた。
 本書はその別役氏の評伝だが、図らずも戦後の日本社会の素顔も描き出す。旧満州(中国東北部)に渡った父・憲夫の人生は満州の秘部に関わる面もあるし、母・夏子を含めた家族史と別役氏の記憶を丁寧に描き出し、著者は氏のデラシネを軸に据えて記述を進める。
 あえて言えば、「別役実空間を印象づける風と電信柱」の原点は満州だとしつつ、戦後社会で次々と住処を変えて育った心情にせまっていく。こうした家族史と自分史から独自の人間観をもつ不条理劇が生み出された、ということになるのであろうか。
 第1戯曲の「AとBと一人の女」、表舞台へのデビュー作である「象」(このとき25歳)によって、新進劇作家との評を与えられる。自由舞台以来の仲間である鈴木忠志氏の談話を紹介しつつ、著者は「別役劇は一貫して共同体からはじかれるマイノリティーたちに光をあてている」とも分析している。この見方が別役劇の骨格を言い当てている。「象」にしても、被爆体験をどのように歴史に刻むかという寓話性を持っている。
 1970年代以降、別役氏は文学座の力を借りながら、「ベケットから逃げ出した」と説く。この表現は、不条理劇から出発して遠回りしながら、新劇の軸である「演劇」なるものと出会うといった理解である。しかし著者は巻末で、別役氏の全作品を紹介したあと、「別役実の不条理劇には解がない」とその深みを指摘する。
 本書は評伝というジャンルに松明を掲げた作品である。
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 うちだ・よういち 1960年生まれ。日本経済新聞編集委員。舞台芸術などを担当。著書『現代演劇の地図』『あの日突然、遺族になった 阪神大震災の十年』、編著書『日本の演劇人 野田秀樹』など。