最近はサブスクリプション型の雑誌読み放題サービスを利用して、気が向いたときにタブレットでいろんな雑誌をシャシャシャッと斜め読みしている。週刊誌からマダム向けのハイクラスファッション誌まで、いろいろ読めるし、かさばらないし、そりゃあ便利だ。けど、心の片隅ではちょっとさびしい。雑誌に対して、わたしついにここまでこだわらなくなっちゃったんだなぁという、自分の淡白さが。
雑誌が大好きだった。小学生のころ、アイドル雑誌から入ってティーン向けのファッション誌を読みはじめ、中学からは映画雑誌も併読し、高校生のころはカルチャー系のカッコいい雑誌にも手を出した。発売日を指折り数えて待ち、本屋で買ってぎゅーっと抱きしめるようにして持ち帰ると、隅々まで読み込んだ。10代はなにかにあこがれてばかりいた。専属モデルに恋するようなときめきを憶えたり、知らない映画や音楽の情報に興奮したり。そうやって毎月ページをめくるうちに、自分っていうものの形が出来上がっていった気さえする。雑誌はほとんど、精神的支柱だった。10代のとば口から出口まで、1990年代まるごと、わたしは雑誌に啓蒙されて育った。
とくにファッション誌は、各誌、理想とする女性像によってカラーがあるから、同じ雑誌を読んでいた子はみんな心の友という感じがする。同年代の人と会って「あのころあの雑誌を読んでいた」という話になると、めちゃくちゃ盛り上がる。ただ、女性誌は対象年齢から外れると卒業していくものだから、蜜月はとても短い。雑誌に夢中になっていたときの、あの感じ。あの感じは、まだなにも持っていない、しかし無我夢中であこがれる力を持つ、10代の少女にしか味わえないものだったんだ。ある時期から、期待するほどのときめきを感じられる雑誌が見つからなくなった。でもそれは、雑誌のせいじゃなくて、自分がそこまで、育ってしまったってことなのかもしれない。
そうして気がつけば、わたしは雑誌に文章を寄稿する側にいる。20代向けのファッション誌でエッセイの連載をして、おねえさんの立場でアドバイスなんかしている。わたしは会ったことのない読者の女の子たちに、毎月手紙を書くみたいに、メッセージを送る。彼女たちの心に届く、ちょっとでも慰めになる有益な言葉を探して、毎月せっせと頭をひねる。きっとわたしが大好きだった雑誌を作っていた人たちも、こういう気持ちだったんだろう。女性誌の根底に流れるシスターフッドを感じながら、わたしは思う。あれは先に大人になった女性たちから、会ったことのない妹たちへの、手作りの贈り物だったのだと。