その本は決して読み終えることができない――。奈良市在住の作家、森見登美彦さんの新刊「熱帯」(文芸春秋)は、謎に包まれた「幻の本」をめぐり、現実と幻想のあわいで大冒険を繰り広げる長編小説だ。執筆開始から8年をかけて完成させた物語は、読者を書物の迷宮へと誘う。
書くことに悩む奈良の小説家は、学生時代に京都の古書店で見つけた「謎の本」のことを思い出す。それは、佐山尚一(さやましょういち)という人物が書いた小説「熱帯」。半分ぐらいまで読んだ記憶はあるものの、ある朝、目が覚めると枕元から消えていた。そして、二度とは手に入らなかった。
どうやら他にも読んだことのある人はいるらしいが、誰も結末までは読めていない。物語は、限られた記憶を頼りに、この小説の秘密を解き明かそうとする「学団」のメンバーたちが主役となる。
「やっぱり小説家としては謎の本をめぐる話とか、作中作が出てくる小説はいっぺんやってみたいなとは思ってましたからね」。アマゾンからアクセスできる電子文芸誌で連載をするにあたり、「そういう場所でやるなら本についての小説がいいかなと。深い考えがあったわけではなく、良いチャンスだと思って」。
「幻の本」めぐる大冒険 悩み苦しみ・・・8年がかり
だが、それが思わぬ展開を招く。前半部にあたる第三章までを2010~11年に連載したが、「11年以降は小説家としても書き方に悩んだり、自信を失ったり、色々苦しい時期で。自分は何で小説を書くんだろうとか、自分にとって小説とは何だろうとか、そういうことを悩んでいることが多かった」と明かす。
直木賞候補になった前作「夜行」を刊行後、17年から改稿と後半部の書き下ろしを始めたが、「2度、夏を経験し、途中で何度もこれはもう駄目だ!とか思って、ふてくされたりした」と言う。「小説についての小説を書こうと思うと、自己言及的になるっていうか、迷路みたいなものに迷い込むのは当然のこと。だけど僕はどうしても、そういうことがやりたかった。年頃だったんでしょうね」
結果として、単行本で520ページを超える過去最長の物語ができあがった。自身で「大遠征」と呼ぶ今回の執筆を終え、「もう二度と嫌です。二度とこんな小説は書くまい」と笑いつつ、「思春期みたいなもんですよ。ようやく小説家としての思春期を迎えた、みたいな。もう戻りたくないっていう感じですね」。
山本周五郎賞を受賞し、昨春にはアニメ映画にもなった「夜は短し歩けよ乙女」(06年)など、京都の街並みを舞台に不思議な出来事が起こる作風は、南米文学のマジックリアリズムにも例えられてきた。その魅力は本作でも発揮されているが、後半部では逆に、幻想の世界に時折、京都が顔を出す。
「これまでも日常に不思議な世界が入り込んできたりする小説が多かったけど、今回はせっかくの機会だから、どこまで遠くへ行けるか試してみよう」と考えたという。「基本的に近所を書く人間なんで、あまり遠くに行きたいわけではないんだけれども、そういう自分が、どうやったら遠くに行けるだろうと」
その扉を開けたのも、「幻の本」だった。「具体的にどこか遠くへ取材に行くとか、なんか僕はそういう方向に想像が行かない。内に内に行くから」と笑う。「できれば内に内に行った揚げ句、外に行きたい。それでなおかつ遠くまで行くっていう、そういう欲望があるんでしょうね」
いま、アマゾンで「佐山尚一」と検索すると、「熱帯」の商品ページが見つかる。連載当時の企画の名残だが、その後も遊び心あふれるレビューが投稿されてきた。「いつの間にやら謎のレビューが増えているという。面白いなあと思って。今後どうなっていくのか、ひそかに見守っているところです」
本体1700円。(山崎聡)=朝日新聞2018年12月3日掲載