「アニマ」と「アニムス」という言葉を知っているだろうか。精神科医のカール・グスタフ・ユングが唱えた専門用語で、男性の中の女性性をアニマ、女性の中の男性性をアニムスと呼ぶのだそうだ。
ここに載せている2枚の写真は、2013年にアフリカのタンザニア、メルー山(4562m)に登った時のもので、向こうに見えるのはアフリカ最高峰のキリマンジャロ。この日はメルー山からキリマンジャロまで70kmもひたすら雲海がかかり本当に美しい夜明けだった。最近写真を整理していて、この写真が気になったのは、アニマとアニムスという言葉を連想させたからだ。
ここからは僕の解釈なので専門的な話はできないが、ユングのある一部をこう理解している。
彼は我々人間の精神を分析してゆく中で、人間の適応能力に着目した。僕らがオギャーと生まれてから今までの道のりは、全て適応の歴史であり、適応の旅なのだと。我々は無意識に無自覚にさまざまな適応を果たしてきたのだ。
一番最初の適応の場は、家族というコミュニティー。僕らはいけないことは怒られ、よいことは褒められて育ったはずであり、それにより最初の社会性を学んだ。そしてその先は、友達、先生、恋人、仕事に携わる様々な人間関係、また新たな家族など、僕らが関わるコミュニティーの数はますます増え、それに従い、様々な社会的な環境、状況に適応する能力が求められた。その時々のシュチュエーションに適応した自分の様をユングは「ペルソナ」、つまり「仮面」と名付けた。兄弟と話すようにクライアントさんと話す訳にはいかないし、上司と話すように彼女に話す人もいない。人は、それぞれの環境に適応してペルソナをつくっていく、という考え方なのだ。
ただこの適応能力は、幼い頃からスムーズに速やかに形成されたかというと、そんな事はなく、その過程で、ひたすら叱られたり、傷ついたり、人間は沢山の否定や、拒否を経験していく。悪気もなく、心から素直に出た自分の表現が否定され続ける歴史なのだ。
その適応の過程で「否定された自分」が無意識の中に蓄積されたものが「シャドウ」と呼ばれる。僕らの無意識の中には抑圧されたシャドウが存在する。これがストレスだ。シャドウが増えると、ペルソナの被り方をミスしたり、社会に適応するのを妨げるので、あるべき場所であるべきように振る舞えなくなる。だから大きな問題として人間は自分の心にも適応しなければならない。
さて、我々のペルソナとしてかなり大きなバイアスに支配されている象徴は、自分は男だ、女だという思いだろう。それは生まれ持ったものなのか、思春期をへて、さらに父や母になり人は、男性として、女性として自覚的にも無自覚的にも生きるようになる。しかし男性らしく、女性らしく生きれば生きるほど、人間としては不完全になるという考え方をユングはしている。なぜなら男性、女性、合わせて人間なので、どちらかに偏るということは、より人間としては不完全になるという訳だ。その不完全さを無意識に補う存在として、男性の中の女性性をアニマ、女性の中の男性性をアニムスとユングは提唱している。
改めて、旅は自分のバイアスを壊すきっかけをくれる。いつもと全く違う環境に身を置くわけだから、当然ペルソナの被り方も分からない。自分がどのような人間で、どのように生きてきたのか、その価値観が通用しない場面が多い。目の前の新しい環境に適応を迫られる時、自分の価値観の尺度が邪魔にさえなるのだ。裏を返すと、自分の価値観なんて、ある一部の環境に適応するために特化したものに過ぎず、それは偏ったものであると自覚せざるを得ないのだ。
だがそんな時、ふと、自分が世界の全てに適応しようとその分のペルソナを全部用意できたとして、そのペルソナを全て足しても世界の全体には届かないような気がした。つまり世界に適応するためにペルソナを被るという手段では届かない場所が存在するのだ。
その場所へ行くための方法は唯一、仮面を外すということではないだろうか。仮面を脱ぎ捨ててしまえば、そこには人間としての、或いは生命としての普遍的な地平が開かれていて、僕らはそこで確実に繋がっているのだ。
メルー山の山頂から地平線まで続く雲海を眺めながら、僕は世界の尺度が分からなくなった。だが分からなくなってひび割れた自分の価値観の奥の方にきっと、呼ぶなれば魂のようなものがあって、それがこの景色と只々、呼応しているような不思議な一体感を味わった。それは理屈を超えた体験だった。
我々はマクロな視点から見ると、全て地球にある素材で出来ている。この星で生まれ、死ぬときはこの星に帰っていく。そんな我々の魂に男性性や、女性性などあるのだろうか。人類が生誕したと言われているアフリカの写真を見返しながら、今改めて、人間のバイアスについて思いを巡らしている。