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作家の生き様 小説家・磯﨑憲一郎

横尾忠則 暗夜光路 旅の夜 2001年 福岡市美術館蔵

具体性・身体性の積み上げ 

 創作特集が組まれている構成は従来とさほど変わらないが、今月の文芸誌新年号は、「文学にできることを」(群像)、「読むことは、想像力」(新潮)といったタイトルが付されたことによって、小説をめぐる状況に対する、ある種の危機感が表明されているようにも感じる。

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 笙野頼子「返信を、待っていた」(群像一月号)の中で作者は、自分より一回り年下の、会ったことは一度しかないが以降も交信は続いていた、ある女性作家の死を、亡くなって半年以上が過ぎてから知る。「人の痛みの判(わか)る、しかし自分の事は他人事のように言ってしまう、それで誤解されるかもしれないやさしい人物」であった彼女もまた、作者と同様に、ある難病と闘っていた、なのに幾度かの無神経な応答をしてしまったことを作者は今更ながらに悔いる、そしてTPP批判小説を発表しデモにも参加した、作者の造語を悪用していたネット上の女性差別に対しても抗議した、愛猫を亡くした失意の中で貰(もら)い受けた病気の猫の看病に尽くした、この一年を振り返る。「桜の花が破滅に見えるような嫌な四月」「泣くのではなくて、何か家の中が雪山のようになった」「それでも、怒りを維持する事で生命を維持している」。憤りと悔いと混乱、病気、束(つか)の間訪れる歓(よろこ)び、絶望と希望を人間は生きている、その人間の生活を脅かす権力と、作者は徹底して対峙(たいじ)する、それは政治的信条である以前に、一人の芸術家としての生き様なのだ。その揺るぎなさに胸を打たれる。
 だが対峙せねばならない相手は、意外な近くにもいるのかもしれない。「『平成』が終わり、『魔法元年』が始まる」と題された対談(文学界一月号)で落合陽一と古市憲寿は、間もなく終わる平成の次の時代について話し合っている。視覚や聴覚に障害がある場合でもテクノロジーによってハンディが超克されるような、「差異が民主化された世界」が実現するという予見が提示された後、話題は超高齢化社会と社会保障制度の崩壊へと移る。古市は財務省の友人と細かく検討したところ、「お金がかかっているのは終末期医療、特に最後の一ケ月」であることが判明したので、「高齢者に『十年早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ケ月間の延命治療はやめませんか?』と提案すればいい」「順番を追って説明すれば大したことない話のはずなんだけど」といい、落合も「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね」と応じた上で、「国がそう決めてしまえば実現できそうな気もするけれど。今の政権は強そうだし」とまで付け加える。この想像力の欠如! 余命一カ月と宣告された命を前にしたとき、更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間なのだという想像力と、加えて身体性の欠如に絶望する。そしてその当然の帰結として、対談後半で語られる二人の小説観も、「文体よりもプロットに惹かれる」と述べてしまっている通り、身体性を欠いた、単なる伝達手段以上のものではない。

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 「悪と記念碑の問題」(新潮一月号)の中で東浩紀は、自らの仕事の起点にはじつは少年時代に読んだ、人間を材木のように番号で管理し興味半分で解剖し殺害した、関東軍による人体実験を暴いた森村誠一の『悪魔の飽食』の衝撃があると述べている。それは「人間から固有名を剝奪(はくだつ)し、単なる『素材』として『処理』する、抽象化と数値化の暴力」であり「人間をかぎりなく残酷にもする」一方で、「抽象化と数値化」は「あらゆる知の源泉」であり、それ抜きには「国家も作れないし資本主義も運営できない」、「そこに厄介な逆説がある」としている。「政治について考えること」とは、その「逆説について考えること」であるとこのエッセイは締め括(くく)られているが、今の時代に、具体性・身体性の積み上げである芸術=小説を書き、読むこともまた、「抽象化と数値化」に抗する一つの実践となるのではないだろうか?=朝日新聞2018年12月26日掲載