男は兵役で苦労するから、女は我慢して当然
――「#MeToo運動」に代表されるように、女性を巡る問題が世界的に議論の対象となっています。韓国の女性が置かれている状況は、みんなジヨンのように苦しいのでしょうか?
儒教の影響が強く、家父長制が残る韓国はまだまだ男性優位の社会です。ジヨンが子どもの頃、炊きたての温かいご飯が出されるのは父、弟、祖母の順で、姉とジヨンは最後。ジヨンの姉が生まれた時、母親が「娘を産んでしまってごめんなさい」と涙ながらに義母へ謝る場面もあります。
また、日本と大きく異なるのが徴兵制です。韓国では18歳以上の男子に約2年間の兵役が義務づけられています。そのため長い間、「男は兵役で苦労するんだから、女は我慢して当然」というような意識が社会的に根付いていました。しかし、1999年末に「軍服務加算点制」(兵役を終えた者に公務員採用試験などで加算点が与えられる制度)に違憲判決が出て、廃止されました。男性に与えられていた特権が引きずり下ろされたわけです。男性たちの間には「女は兵役にも行かないし、デート費用も出さない。男を不当に搾取している!」というミソジニー(女性嫌悪)が広がり、今日に続く男女対立の一つの火種になりました。
――原書は発売から2年経った昨年11月、100万部を突破しました。女性からの共感だけでなく、「キム・ジヨンを抱きしめてください」というメッセージとともに文在寅大統領に本を渡す男性の国会議員が現れるなど、社会現象にもなりました。一方で「単なるフェミニズム本だ」という批判もあります。韓国での受け止め方は、どのようなものなのでしょうか?
韓国最大の書店「教保文庫」のサイトでレビューを見ると、「私もこんなことがあった」「これは私の物語だ」という女性たちの声があふれています。女の子を持つお父さんなど、男性にも好意的な層はいます。しかし、インターネットやSNSを中心に「これは文学じゃない」とか「事実を歪曲(わいきょく)している」という男性たちからの批判もあります。ただ、この本に書かれていることは決して過激なわけではなく、韓国の女性にとっての「あるある」なんです。
例えば、就職試験に向かうジヨンがタクシー運転手の男性に「ふだんは最初の客に女は乗せないんだけどね、ぱっと見て面接だなと思ったから、乗せてやったんだよ」と言われる場面があります。昔の日本でも「ツキが落ちるから」という理由で、珍しくはなかったことだと思います。それに対して、男性は「運転手が悪いだけで、男が悪いわけではない」と声をあげます。この小説を巡る男女間の溝は深く、女性アイドルグループ「Red Velvet」のメンバー、アイリーンが「読んだ」と発言しただけで、一部男性ファンが「フェミニスト宣言をした」と反発し、彼女の写真を燃やしたり、切り裂いたりする動画を投稿して波紋が広がりました。
予想をはるかに超える反響に驚き
――昨年、映画化が発表されると、ジヨン役の女優チョン・ユミさんにも「がっかりした」と批判が集中しました。なぜ、ここまで注目を集めるのでしょうか?
韓国での発売当初は、担当編集者も1万部はいかないと予想していたそうです。著者のチョ・ナムジュさんは放送作家として社会派番組などを10年間担当してきた女性ですが、出産・子育てを機に仕事を辞め、ワンオペ育児のつらい時期を小説を書くことで乗り越えたそうです。ジヨンの人物像には放送作家として様々な事例を見聞きしてきた経験、そして彼女自身の経験が多分に反映されていると感じます。ジヨンは平均より少し恵まれた家庭で育っています。「経済的に苦しい設定にすると、ジヨンの苦悩が貧しさのせいにされてしまうから」とナムジュさんが語っています。また、ジヨンは韓国女性にしては内向的で、自分の意見を口にしない性格です。そんなジヨンですら「これほどの体験をしてしまうんだ」という部分が共感を呼び、ヒットにつながったのではないでしょうか。
――昨年12月に斎藤さんが翻訳した日本語版が刊行され、日本でも大きな反響を呼んでいます。
予想をはるかに超えた反響で驚いています。SNSには「涙で読み進められない」と、ジヨンを自分のことのように捉えている女性が多くいて、年長の女性として申し訳ない気持ちになりました。日本の女性もこんなに我慢していたんだなって。韓国では「絶望」とか「怒り」はあっても、「泣く」という反応はあまりなかったから、日本の女性が泣くっていうのは意外でした。そして、この作品が呼び水となり、たくさんの女性が感想や自身の経験をSNSに投稿したり、周りと話し合ったりしています。男性からは「姉妹や友人のことを考えるとつらい」「気づかないうちに女性を苦しめていたかもしれない」「まず男性が読むべきだ」という感想が多く、韓国のような男女間の対立にはなっていない印象ですね。
正論をいかに文章に溶け込ませて伝えるか
――物語は、ジヨンから聞き取った半生を記したカルテという形式で進んでいきますが、翻訳で苦労した場面やせりふはありますか?
全体的に淡々とした文章になっている分、せりふだけは生き生きさせたいと思いました。就職活動がうまくいかずにふさぎ込むジヨンに、父親が「このままおとなしくうちにいて、嫁にでも行け」と言い放ちます。それに対して母親が怒って言ったせりふをどんなニュアンスで置き換えれば良いのか悩みました。すると、著者のナムジュさんが参考にして欲しいと「GO WILD,SPEAK LOUD,THINK HARD」というフェミニズム運動の中でよく使われるスローガンを教えてくれたんです。これを加味して、日本語訳は「ジヨンはおとなしく、するな! 元気出せ! 騒げ! 出歩け!」としました。ジヨンの母親は韓国の経済成長を支えた「たくましい韓国女性」の象徴みたいな設定で、記憶に残るせりふがたくさんあります。
ジヨンが娘を連れて公園でコーヒーを飲んでいる時、通りすがりのサラリーマンから浴びせられて精神に異変をきたすきっかけになった「ママ虫」という言葉も訳しづらかったです。夫の稼いだお金で遊び回っている母親を侮辱するネットスラングです。「ママ虫」って日本語にすると少しかわいい印象がありませんか? でも韓国語だとすごく嫌な語感があって、「母害虫」とか10個くらい候補を出して、最後の最後まで悩みました。
――これまでにも多くの韓国文学を翻訳していますが、心がけていることはありますか?
韓国文学というか、韓国人には正論を口に出して言う文化があります。日本人が言うと「青臭い」とか「偽善だ」って思われるようなことも、当たり前のように言うんです。この本でも、ジヨンが女性であることを理由に職場で不当な扱いを受け、ぼうぜんとしますが、すぐその後で「目の前に見える効率と合理性だけを追求することが、果たして公正といえるのか」と語っています。そういった正論をいかに文章に溶け込ませて、伝えるかはいつも心がけています。『82年生まれ、キム・ジヨン』は台湾でもベストセラーになりましたし、ベトナムやイギリス、フランスなど世界16カ国で翻訳されることが決まっています。韓国文学が広く読まれ、どう受け止められるのか。期待しています。
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