最初に『チーズはどこへ消えた?』の担当編集者の冨田健太郎さんにお話を聞いた。
――チーズはどこへ消えるのか、と思っていましたが、発売から20年たったいまもこの本は売れ続けています。
毎年、増刷しています。日本国内では88刷、累計400万部、世界では2800万部売れています。最近は大リーガーの大谷翔平選手が愛読書にあげたのがきっかけで売れています。
――薄いページ数、小ぶりな判型、軽いタッチのイラストと斬新なタイトル、寓話形式の記述……斬新なビジネス書は社会現象になりました。この本をマネした本がたくさん出版されました。編集者として狙っていたのでしょうか。
いいえ。そもそも私は海外ミステリーがメインの翻訳本の編集者で、ビジネス書を作ったことがありませんでした。扶桑社にとっても、この本が実質的に初めてのビジネス書でしたので、ビジネス書を作るノウハウもありませんでした。
――なぜ御社が出版することになったのですか。
著者のジョンソン氏は日本でもベストセラーになった『1分間マネジャー』をはじめ多くの著書があります。それまで彼が書いたビジネス書は他の出版社から出ていましたが、本作はあまりにビジネス書らしくない寓話だったのでその版元さんが二の足を踏まれたそうです。それで扶桑社が契約できました。
――最初に著者が書いた原稿と、実際、本になった原稿はかなり違うそうですね。
「米国で売れている」「さあ、本を作ろう」となったとき、著者からびっしり赤字が入ったゲラが送られてきました。米国で増刷するときに書き換えたから、こちらの原稿を使ってくれというのです。内容は大胆に変わっていました。驚きましたが、著者のジョンソン氏は講演や研修の反応を見たり、自分が思いついたことや考えたことがあったりすると、どんどん講演の内容や原稿を変えて進化させていくスタイルの持ち主だったと思います。出版のあとに内容をこれほど書き換えるのは異例です。ベストセラーになっていたため許された面もあるでしょうが、それが著者のスタンスなのでしょう。
――それまでのビジネス書のイメージを打ち破るユニークな体裁はどのようにして生まれたのですか。
その頃、翻訳書は厚みがあって、読みがいのある本が求められると思われていました。特に翻訳書はそんな傾向が強かったんですね。でも、『チーズ』は、そもそもが100ページに満たないのですから、物理的にもどうすることもできません。米国で出版した本は薄くてもハードカバーで教科書みたいな硬いイメージのつくりになっていましたが、英国で出版された本を見ると軽いタッチのつくりになっていました。そこで、とにかく薄い本だし、手に取りやすいものを作ろうと、英国版の本を参考にしました。
――編集者としての「迷い」はなかったんですか。
デザイン担当の社員と相談し、迷路の中の話なのでポップなつくりにすることになりました。彼の推薦でイラストレーターの長崎訓子さんにカバー・イラストを頼むことになり、依頼しに行った際、ちょうど見本ができていたのが、ロバート・トヨサキさんが書いた『金持ち父さん、貧乏父さん』でした。寓話形式のビジネス書なので、編集作業は迷いましたね。「こういう作り方の本で大丈夫だろうか?」「日本の読者に受け入れられるんだろうか?」と。
――一方、販売担当の社員たちは発売前から盛り上がっていたそうですね。
ゲラを読んだ書店営業の社員たちがこの本の良さを見きわめてくれて、積極的に動きだしたんです。編集のわたしより、他の社員たちの方が盛り上がっていたと思います。
――そして、発売すると売れた……。
米国でヒットしていたので、発売前に、外資系企業から「研修で使いたい。まとめ買いしたんだけど」といった内容の問い合わせが来ていました。ビジネスパーソンに爆発的に売れたのは、当時のソニーのCEOだった出井伸之さんが、社員に薦めたのがきっかけです。米国で話題になっていることはもちろん、ご存じだったと思いますが、これで火がつきました。販売担当からは「ソニーの社員が書店に来てみんな『チーズ』『チーズ』と言っている」といった話も入ってきたりしました。『会社四季報』を見て、名だたる企業に見本を送ったりもしました。
――その後、この本は高齢者から子どもまで老若男女問わず読まれました。「ビジネス書」というよりも「生き方の指南書」みたいな感じで広がりました。一般読者に広がったきっかけはなんでしょう?
関連会社のフジテレビさんの影響力が大きかったですね。読者の中に「この本を読んで考え方が変わった」という主婦の方がいて、その声がワイドショー紹介されたんですね。そこから一気に女性層に広がりました。
――販売面でも工夫したそうですね。
当初はビジネスパーソンに向けて「この本があなたのビジネスを変える」とうたいましたが、ターゲット層を変えて、本の帯のコピーも「あなたの人生を変える」に修正しました。新入社員に向けたコピーをつけたこともあります。
――記録的なヒットになります。当時、社内の様子はどんな感じでしたか。
編集部ではわかりませんでしたが、書店営業の部署は大騒ぎだったようです。書店さんから絶えず電話が販売担当にかかってきていたそうです。半年間で300万部になりました。もう担当編集者の手を離れた感じでした。
――いま読んでも新鮮な内容ですね。迷路にあった大切なもの(チーズ)がなくなるという突然の「変化」に、ある者は状況を変えようと迷路を飛び出し、ある者はそのまま迷路に残って現状を維持しようとする。本が発売された頃は、日本もバブル経済が崩壊する直前で大きな「変化」の兆しが見えていました。
政治の世界は森喜朗首相の時期で、いろいろなことがうまく回らなくなり、閉塞感が漂っていました。その後、小泉純一郎さんが首相になり、「小泉劇場」が始まりました。
――著者のジョンソンさんは、生前、日本に来ています。
本がヒットしてだいぶ経ってからです。彼が世界旅行の途中、二人の息子さんを連れて日本に立ち寄ったんです。そのとき箱根にご案内しました。興味津々に足湯を楽しむなど、何事にも積極的な姿が印象的でした。とても穏やかで優しい人柄でしたね。もともと彼はビジネス書を書く前は、子供たちに向けてリンカーンやエジソンなどの偉人の生涯と教えをわかりやすく書いていた児童書の作家でした。寓話形式でやさしく、大切なことを伝えようとした『チーズ』にも、そんな彼の人柄があふれていると思います。
――20年前、『チーズ』を読んで感動したのに、変化に飛び込まなかった自分を恥じております。もう一度読み直さないと(笑)。本日はありがとうございました。
……というわけで、ここでバトンタッチ。『チーズ』の続編『迷路の外には何がある?』の担当編集者の吉田さんに話を聞きます。
――吉田さんは『チーズ』が出版された当時は何をしていたのですか。
はい。まだ編集部に配属されて2年目の頃でした。『チーズ』のゲラを見て「これは面白い」「売れるかも」と思いました。短いストーリーで読みやすかったし、話も面白い。タイトルのつけ方や装丁も「おや」と思わせましたし。販売の人間と言っていたんですよ。「2万部いくんじゃないか??」って(笑)。
――新入社員として、どのような思いでヒットを見ていましたか?
ただ、うちは絶好調だったんですね。『チーズ』の前にもフジテレビの人気番組を書籍化した「ビストロスマップ」のレシピ本や「新しい歴史教科書を作る会」の会長だった西尾幹二さんの『国民の歴史』がベストセラーになっていました。そんなところに『チーズ』も売れて……あの頃はボーナスもびっくりするくらい出ていましたからね。
――今回、続編である『迷路の外には何がある?』が出版された経緯は?
ジョンソン氏は2017年に亡くなりましたが、翌年になって『チーズ』の続編の遺稿があると翻訳エージェントから連絡が入りました。もちろんあれだけ売れた、『チーズ』の続編ですから、「この本の版権は絶対にうちが抑えないと」と社内は色めきましたよ。
――正直に言うと、続編を読んでホッとしました。主人公は『チーズ』に出てくる「ヘム」です。チーズがなくなったという突然の「変化」に対応できず、迷路の中に残った小人です。
変化に対応できず、動くことができなかった主人公のヘムは「負け組」のように見えたかもしれません。でも、実は変化を前にして動ける人はそんなに多くありませんし、その時に動けなかったからといって全部ダメというわけでもありません。「これは私の話だ」と思って読んでくれる読者はたくさんいると思います。多くの気づきを得て、変化していくヘムの姿もよく書けています。
――この20年間で、私たちが生きている世界は、さらに大きな変化が起きています。グローバル化とインターネットの発達で生活もビジネスも劇的に変化しています。そこにAI(人工知能)の発達が加わり、世界の風景が一変しようとしています。
1冊目の『チーズ』は変化にどう対応するか、をテーマにしていましたが、続編の『迷路の外には何がある?』は変化に対して行動できなかった人はなぜ動けなかったのか、どうしたら動けるようになるのか、をやさしく説いています。人は自分が真実だと思っている「信念」に基づいて行動しますが、その信念が人を囚われの身としてしまうこともある。では、行動するために、私たちはどうしたら自分が執着している考えを変えることができるのか……詳しいことは本を買って読んでいただくとして(笑)、私たちが生きている世界ではパラダイムシフトは繰り返し起きています。『チーズ』と一緒に併読していただけたら、より深く理解していただけると思います。実際、『チーズ』からまずは買ってくれる読者の方もけっこういらっしゃるのではないかと。
――なるほど。ビジネス書というと「弱肉強食」のイメージがありますが、この本は「敗者復活戦」なんですね。本の中には、がんになったジョンソン氏が病魔に対してあてて書いたメッセージも収録されていますね。その中でジョンソン氏は病気になったことで考えが変わった、病に感謝する……と述べています。
寓話の最後に出てくる標語は「それをほかの人たちにも伝えてほしい」というものです。ジョンソン氏は自分が書くもので人をラクにさせたいと思っていたそうです。うまく行動できた人も、行動できなかった人に対しても、そのまなざしは一貫していて変わりません。本の編集をしていて、あらためて利他的な人柄が偲ばれました。ジョンソン氏が最後に残したこの本は、ぜひ前作以上に多くの人に読んでいただきたいと思います。内容には自信があります。
――『チーズ』があれだけ売れたので、続編の担当編集者としてプレッシャーもあるのでは?
発売時にかなりの部数を刷りますから、プレッシャーはないといったらうそになります。あれだけ売れた『チーズ』の続編がはたしてどれくらい売れるのか、みなさん、興味津々に見ていますし。書店さんからの期待も高まっていますが、出版界を取り巻く環境も激変していますからね。内容に自信はありますが、正直に言うと、おっかなびっくりという感じもあります。
――社内には『迷路の外には何がある?』を売るためのプロジェクトチームも立ち上がっているそうですね。
編集、販売、宣伝といろいろな部署から10数人のメンバーが集められています。こうなってくると、担当編集者の一存でどうのこうの、いうレベルの話ではありません(笑)。
――失礼ながら、万が一、売れなかったら?
そのときはそのとき、しっかり現実を受けとめたうえで、また、がんばっていきます。
――「変化」には柔軟に対応しないと、ですね。ありがとうございました。
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