海外ホラー小説の名作を相次いで刊行している注目のシリーズ「ナイトランド叢書」から、またまた驚くべき作品が出た。イギリス発の海洋冒険ホラー『メドゥーサ』(アトリエサード)だ。
作者名もタイトルも聞いたことがない? ご心配なく。E・H・ヴィシャックという作家が1929年に発表したこの長編は、英語圏でも入手困難で、電子書籍化もされていないという珍品中の珍品だ。今日までよほどのマニアでなければ読むことが叶わなかった、幻の作品なのである。
私が『メドゥーサ』の存在を知ったのは、コリン・ウィルソンの文章を通してだった。『アウトサイダー』などの評論で知られ、幻想文学にも造詣の深かったウィルソンが、自らの読書遍歴を語ったエッセイ集『超読書体験』において、ヴィシャックの作品に言及していたのだ。ウィルソンは「それほどいいとは思わなかった」と率直な読後感を述べたうえで、『メドゥーサ』のあらすじを詳しく紹介している。それがなんとも好奇心をそそるものだった。
とりわけ気になったのが、イカかタコのような怪物が登場し、主人公たちに襲いかかるという、H・P・ラヴクラフトの〈クトゥルー神話〉作品を連想させるクライマックス。しかも怪物に捕らえられた男たちは、なぜか恍惚の表情を浮かべているらしい。
いつか読んでみたいものだ、と願い続けて約20年。やっと手にすることができた『メドゥーサ』は、長年の期待を裏切らない怪作だった。
ある事件をきっかけに、預けられたばかりの寄宿学校から脱走した孤独な少年ウィリアムは、親切な男ミスター・ハクスタブルに助けられる。息子を探す旅に出るというハクスタブルとともに、大海原に乗り出したウィリアムだったが、順調に思えた航海は、船内で幽霊の噂が囁かれるようになった頃から不穏さを増してゆく。やがて乗り捨てられた海賊船が発見され、口のきけない男が救出される。
そして訪れる、問題のクライマックスシーン。心の準備をしていたにもかかわらず、やはり啞然としてしまった。この奇妙さは、描かれている事実そのものより(触手だらけの巨大生物が暴れまわる)、ストーリー構成のアンバランスさに拠るところが大きいだろう。独特のペーソスを漂わせた海洋冒険小説として展開してきた物語は、ラスト50ページにいたって突如コースアウトしてしまうのだ。しかも読み返してみると、この唐突さはどうやら作者の意図したものであるらしい。一体全体なぜこんな展開に?
コリン・ウィルソンはこの奇妙なクライマックスを、海の男たちを誘惑する性の幻想であると解釈した。しかし最後まで回収されなかったいくつもの伏線から、本作をおぞましい超自然ホラーとも、崇高な神秘主義小説とも読み解くことは可能だろう。
いずれにせよ、重大なパーツが欠けているからこそ面白いという、不思議な味わいの小説である。海外では「LSDでぶっとんだメルヴィルが書いた『宝島』」とも評されているそうだが、そこまで前衛的な作風ではないのでご安心を(特にクライマックスにいたるまでは)。たとえば森見登美彦の話題作『熱帯』が楽しめたという方ならば、このミステリアスな作風はきっとお気に召すはず。
未知なる海へ、いざ出航!