2~3世紀の南インドの人、龍樹(ナーガールジュナ)が著した『根本中頌(こんぽんちゅうじゅ)』、略して『中論』は、仏教史上最も重要な理論書である。ここで説かれているのは、「実体の実在」の徹底した否定、つまり「空」の理論だ。言語で世界を捉えている私たちは、言語によって記述される対象が実在すると思っている。が、それは虚妄だというのだ。
しかし、「無い」ということを直接証明することはできない。というのも「Xは無い」と言ってしまえば逆に、Xが有ったこと/有りうることを前提にしてしまうからだ。そこで『中論』では、「有るとは言えない(無いとも言えない)」というタイプのことが、ほとんど詭弁(きべん)ではないかと思いたくなるほど純粋に論理的に証明されていく。
例えば「歩く人」が実在しないということを証明する論法。歩いている人は歩いているか? 「歩いている人」というものがさらに歩くというのは不合理なので、それは歩くことはない。歩かない人は、当然歩かない。歩く人でも歩かない人でもどちらでもない者が歩くなどということもない。
このような証明が次々と提示されていく。だがどうしてここまでして、「実体」を拒否しなくてはならないのか。「無明(むみょう)」から解放されるためである。無明こそが「苦」の根本原因である。無明とは無知を意味する仏教用語だが、ここでは、実在していないものを実在していると思い込むことだ。無明から、実在しない物への執着や所有欲が生まれ、人生の苦がもたらされる。
西洋の哲学者の中には、この種の仏教の論理は、個人の心の平安のためにはよいが、社会思想としてはどうだろうか、という疑問を提起する者もいる。執着や欲望を消してしまうと、ときに、不正義がなされていても気にならなくなってしまうからだ。しかし現代の社会思想もまた、空の教説から学ぶべきことがある。ラディカルな変革のためには、既存のルールや制度への執着を一旦(いったん)徹底して断つ必要があるからだ。(社会学者)=朝日新聞2019年3月9日掲載
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