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勤勉の行方 津村記久子

 最近、もはや暇を持て余してしょうもないことを考えている時間があったら仕事をした方がましだと思う、と友人が言うようになった。働きすぎたら疲れるけれども、長すぎる暇は自分を苦しめる、ということに気付いてしまったのだ。自分がそのように思い始めていたところに友人がそう言い出したことに驚いた。わたしたちはどうも勤勉だったようだ。

 ところで小学生の頃、聖徳太子は十人の話を聞き分けたからすごい人だったんだ、という話を聞いて、べつに大したことなくないかと思った経験はおありではないだろうか。わたしは思っていた。小学校のクラスの子たちがいっせいにしゃべり始める事なんてざらだったからそんなの余裕だと自負していた。子供の頃はテレビを見ながら宿題をしたり、本を読んだりも平気でできていた。今は無理だ。聖徳太子はすごい人だ。

 人間は年を取るにつれてマルチタスクが下手になっていくのではないかと思う。子供は可能性を模索している段階なので何でもやってみたらいいということにおそらくそれは関係していて、大人になってできることの範囲が狭く深くなっていくにつれ、同時にできることが少なくなっていく。今はドラマを観(み)ながら携帯でゲームをするのがやっとだ。でもそれも危ない。五年後ぐらいにはできなくなっているかもしれない。

 しかし冒頭に書いたように、根が勤勉である事からも逃れられず、ただテレビを観ているという事もできない。なら英単語の一つでも覚えたらいいのだが、それは難易度が高く、人間に心地よい課題を提供するようデザインされたゲームの誘惑には負けてしまう。しかしゲームの中での勤勉さが出す結果は、どこまでもかりそめのものだ。

 結局、テレビを観ることと最も相性がいいのは「洗濯物をたたむ」であることに気が付いた。すると今度は洗濯物は無限にあるわけではないことに悩み始める。もう休み時間にテレビ自体観るなよ、という指摘はなしでお願いします。=朝日新聞2019年3月11日掲載