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「僕ら」じゃない私達は、宇宙だって言葉に出来るって信じていた 紅玉いづきさんが特別に大好きな曲「天体観測」

 「十代の時に大好きだった音楽の話を」そうもちかけられて、心に浮かんだのは一枚のアルバムだった。
 黒い宇宙に、ぼんやりと浮かぶ、大きな惑星。
 一緒に思い出したのは、かさついたわら半紙の感触。
 もう、私にとっては唯一無二、これしかない、と思った。十年経っても、二十年経っても、特別な「大好き」のこと。

 高校生になって私は文芸部に入った。
 春には桜、それが終わるとツツジの美しい急な坂の上にある高校で、部室は長机を2つに、長椅子が2つ。小さな本棚と、ダンボールと、古びた膝掛け。ドアにはなぜか、誰が書いたのかわからない「よきにはからえ」という小さなメモが貼ってあった。すべて曖昧な記憶と思い込みの中だから、いろんなものが間違っているかもしれないけれど。
 5、6人も入れば満員になってしまうような、小さな部室が学校生活のすべてだった。私はあの部室で、たくさん笑って、それなりに泣いた。楽しいことも悲しいことも、全部あそこにあった。

 そして私の高校生活は、小説そのものだった。
 高校生になって、自分の小説を活字にすることを覚えた。ワープロの「書院」じゃなくて、パソコンの「一太郎」で。自分の字じゃない物語は、ずっとずっと立派になったような気がして誇らしかった。
 文芸部は私に書く場所をくれた。〆切をくれた。一緒に書いてくれる仲間をくれた。
 2年に進級した時に、1年上の先輩と仲がよかったこともあり、何かをやろう、と話し合った。とにかくもっと書きたかった。いや、当時はどんな気持ちだったか、正確に思い出せるわけではないのだけれど、愛した衝動しか覚えていない。とにかくもっと、もっともっと書きたかった。
 年に1度、文化祭で配る部誌だけではなく、定期的に冊子をつくることにした。1ヶ月に1冊、交互に2種類。1冊は、元からあったペーパーの拡大版として。そしてもう1冊は、いちから自分達の手で創刊した。その冊子の名前を──「天体観測」という。

 出典は間違いない、BUMP OF CHICKENの名曲で、「jupiter」というアルバムに収録されていた。そのアルバムを、繰り返しきいたことをよく覚えている。ひりつく歌詞も、軽快なメロディーラインも、当時の私達そのものだった。誰の発案で、誰が決定したのかは覚えてないけれど、迷った記憶も、揉めた記憶も特にない。
 部誌はいつも結構な分厚さで、私達はひたすら書きたいものを書いた。合評も感想会も強要されることなく、ただひたすらに。時には分冊して上下巻になることさえあった。1ヶ月に1冊なんて、今となっては笑ってしまうけれど、本当に毎日毎日小説を書いていた。打ち込んで、印刷をして、職員室の輪転機でたくさんのわら半紙を吐き出した。空き教室の机に並べて、一枚一枚拾いながらぐるぐる回って、「黒ミサみたい」と笑いながら、大型のホッチキスで製本した。
 つらいこともあっただろう。上手くいかないことだって、たくさん。でも、あんな楽しいことは、人生のうちにそうはなかったと思う。書くことが人生の愉しみになった。その記憶は、今でもこの仕事の支えとなっている。

 数年後、私は作家になって、「ガーデン・ロスト」という、高校を舞台にした小説を書くことになった。その時、取材と称して高校に遊びにいった。
 文芸部の部室はもうなかった。漫研と一緒になっていて、もう少し広い部屋にかわっていた。けれど、部室にいた子たちは、晴れやかな顔で言った。
 「まだありますよ! 天観!」
 あれからずいぶんな時間が経ってしまった。だからもう、今はないのかもしれない。
 でも、私達はきっと、あのわら半紙の空に、星座を描いたのだ。