みつばちネクタイ
小沢真理先生の『世界でいちばん優しい音楽』(通称・せかやさ)で、主人公のスウが、海外赴任でロンドンにいる婚約者の豊上さんのためにネクタイを作る、というエピソードがある。
主人公が想い人のためにマフラーを編む、というのは昔の少女マンガあるあるだけど、ネクタイを縫うというのは初めてだ。ネクタイ。そのアイテムのチョイスに痺れる。
スウはデパートで豊上さんに似合いそうなネクタイを見つけたが、3万8千円…一瞬考えた後、こう言う。
「確かこれに似た生地がユザキ屋にあったっけ…まえに作りかた雑誌に載ってたわ」
あぁ、本物だ。
このあとにページ一枚抜きで、右側にミシンでネクタイを縫うロングショットのスウ、左側に受け取ったネクタイにキスをする豊上さんのアップ。ふたつのコマを分ける線が野の草花を使い絶妙に配置されており、女性なら誰しもうっとりしてしまう。小沢先生のマンガにはこのように細やかな描写が所々に散りばめられており、一枚の絵画のようにも楽しめる。
星空の生地をひろげて9時間の時差を消すごと走らすミシン
大学生のころ事務のアルバイトで入った会社には、女性(恩地さん・当時29歳)が一人しかいなかった。
入って一週間くらい経ったころ、恩地さんから突然、今度退職するタグチ課長に今までの感謝の気持ちにふたりで何かプレゼントしようと提案された。入ったばかりで感謝の気持ち…と内心思ったが、社内カーストには逆らえない。
とある穏やかな日曜日、わたしはおはようございます、お疲れさまでした、を計5回交わしただけのタグチ課長(推定52歳)のために大阪・梅田の阪急メンズ館にいた。
恩地さんは「ネクタイがいいと思うの。次の職場でも役立つでしょ」と、慣れた調子でネクタイ売り場まで連れて行ってくれた。
当時のわたしはネクタイというものをはっきり意識したことがなかったように思う。なんというか、スーツの一部としてうすぼんやり認識していますよ、程度だったのだ。
わたしは膨大なネクタイのグラデーションの海原に立ち尽くした。こんなにたくさんの種類があるのか…さわってみると、シュルシュルしていたり、ざらりとしていたり、生地も千差万別。恩地さんに、「高田さんはどれがいいと思う?」と聞かれ、課長の年齢からいくとこれかな、これかも…と指さすが、自分でも海の中をぷかぷか浮いているような頼りなさだけがあり、どれもこれもしっくりこない。どんどん遠くへ流されていくよぅ。
そのとき、恩地さんが一枚のネクタイを指さした。「課長は顔が地味だから、これくらい派手な方がいいと思わない?あかるくて、顔が映えると思うの。なんか、みつばちも寄ってきそうでしょ(笑)」みつばちガヨッテクル……脳内変換が遅れる。
みつばちが寄ってくる(?)のがいいのか否かはさておき、彼女が大海原から掬い上げた花柄のそれは輝いていた。
その日からわたしは、社員さんや電車に乗った際など、ネクタイを意識的にチェックするようになった。(おお、あのチェック柄かわいいなぁ。あれは、隠れミッキー…!)意識すると、その人の個性がわかって意外と楽しい。同時に、男性は毎日気を使ってネクタイを選んでるんだなぁと今までネクタイに無反応だった自分を反省し、積極的に褒めるようになった。
送別会の日、恩地さんが選んだネクタイの箱を開いた課長はとても喜んでいるように見えた。宴会が盛り上がるなか、聞こえない程度の声で(みつばち、寄ってくるといいですね)と言うと、聞こえたかきこえなかったか、課長は「うん」と微笑んだ。