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作家の読書道 第206回:江國香織さん

冒頭から引きこまれるものが好き

――いちばん古い読書の記憶について教えてください。

 「うさこちゃん」の絵本かな。最初の4冊の絵本の日本語版は、1964年が初版なので、私と同い年なんです(『ちいさなうさこちゃん』『うさこちゃんとうみ』『うさこちゃんとどうぶつえん』『ゆきのひのうさこちゃん』)。もうちょっと早かったら生まれてすぐに出合ってはいなかったので、ほんとうに良かったと思ってます。ラッキーでした、ふふ。

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――「うさこちゃん」はミッフィーとしても有名ですが、石井桃子さんの訳の絵本も馴染みがありますよね。物心つく前からずっと絵本を眺めていたのですか。

 そうです。物体としての本を。本当に赤ん坊の時から読んでもらっていたらしいんですけれど、もちろんその記憶はなく。でも、文字を読み始める前から、あの四角の本を、表紙のうさぎを、ぬいぐるみと同じように好きなものにしていたというのが、たぶん最初の本の記憶だと思います。おもちゃの一種みたいに、身近にあったものでした。
 あとは、マーガレット・ワイズ・ブラウンが文章を書いた『おやすみなさいのほん』とか、アンデルセンの『人魚姫』とか、センダックとか、ガース・ウィリアムズとか、日本の絵本では『花さき山』をよく憶えています。

――それらは読み聞かせてもらっていたのですか。

 そうですね。だから絵を眺めていたというよりは、読んでもらったお話を眺めていたんだと思うんですね。絵を絵として鑑賞していたわけではなくて、字が読めなくてもお話を眺めていた感じだったと思います。

――外で遊ぶアウトドアなタイプではなく、おうちで......。

 うん、まったくアウトドアとは違いましたね。母とデパートに行った時も階段で絵本を読んでいました。自分のものを買ってもらう時は嬉しいから売り場について行くんですけれど、家庭用品とか食品を買っている間は退屈しちゃうので、階段で本を読んで待っているという。

――小学校に上がって、だんだん文字が読めるようになると読むものも変わっていきましたか。

 私はたぶん、その移行がスムーズじゃなくて。字をおぼえるのは早かったらしいんですけれど、読み物の最初って、ちょっと我慢しないと物語の中に入り込むまで面白くないじゃないですか。最初の風景描写とかがあるところで飽きちゃっていました。そのくせ、自分の年齢よりもちょっと上のものを選びがちでした。タイトルに惹かれて図書館でいつも選んでしまう本が何冊かあって、でもいつも2~3ページで飽きちゃうんですよ。
 最終的には、小学校1年生、2年生の頃、図書の時間という図書室で借りたい本を借りて読む時間には、いつも絵本の『わらしべ長者』を借りていました。それは何回読んでも面白かったから。でもそればかり借りていたら、先生に「もう少し難しい本も読みましょう」ってコメントを書かれちゃって(笑)。

――『わらしべ長者』は最初からすぐ物語世界に入れたんですね(笑)。

 そうですね。それに、それまでは買ってもらうのも読んでもらうのも『くまのプーさん』のような海外の本が多かったので、『わらしべ長者』をはじめて図書室で読んだ時の驚きというのがありましたね。「すごい!」って(笑)。

冒険小説を逃したという思い

――作文や読書感想文は好きでしたか。

 うーん、好きではなかったですけれど、他の教科よりも得意でした(笑)。

――自分でお話を作ったりとかは?

 それは小さい時から遊びの一種としてやっていて、父が取っておいてくれていたのでだいぶ残っています。紙に短い話を書いてホチキスで止めたものとかがありますね。父もものを書いていたので、原稿用紙をもらって、そこに未完の小説の冒頭を書いたりも。完成はさせられないんですけれど、お話を作るのは好きでした。
 6歳の時に妹が生まれたんですけれど、妹がちょっと大きくなった頃、たとえば私が10歳で妹が4歳の頃とか、私が12歳で妹が6歳の頃に、ふたりで「お話つなぎ」というのをよくやったんです。その時々で2行ずつ交代とか5行ずつ交代で作っていくんですけれど、私はその頃から細かい部分を描写するのが好きだったので、こまごまこまごま書くんですが、妹がすぐぶち壊すの、それを(笑)。「そこに大波が来てすべて流れていきました」とか「と思ったらそれは夢でした」とか、すごく大胆なんですよ。それは面白かったな。

――その頃、将来物語を書く人になりたいとか、思ったりしたわけではなく?

 全然思ってなかったですね。あくまでも遊びとしてやっていました。

――さて、その後、文字の多い本も読むようになっていったと思うのですが。

 そうですね。絵本ではないものを自分で読んで楽しめるようになったのはわりと遅くて、小学校の4年生か5年生くらいですね。4年生くらいまでは依然として、寝る前に母に長い話を読んでもらったりしていました。
 自分で面白いって思ったのは、それは後にちょっと残念に思うんですけれど、女の子っぽい本ばかりだったんですよ。そういう本ばかり自分が選んでいたんですね。『あしながおじさん』とか『小公女』とか『若草物語』とか『赤毛のアン』とか。もちろんそれらはすごく面白かったけれど、たとえばルパンとか、『海底2万マイル』とか、『ツバメ号とアマゾン号』といった面白い本も、同じようにそばにあったはずなのに。あの頃ってなんとなく、そういうのは男の子が読むものだと思っていて。だって、キャラメルのおまけにさえ、男の子用と女の子用があった。

――ああ、グリコのキャラメルのおまけ、当時は男女別々でしたね。

 だから、本も女の子っぽい本ばかり選んでいて、そういう冒険ものを読めていないという欠落があって。
 中学校になると突然見栄っ張りになり、子供の本ではない大人っぽいものを、しかも全然分かりもしない名作というのを読み始めました。電車通学だったので結構読む時間があったので、『パルムの僧院』とか『赤と黒』とか、トルストイとかをやたら文庫で買っていました。こんなにいっぱい読んだんだって思いたいがために。でもね、まったく身にならなくて忘れちゃっていますね。
 中学生の時は、最初は外国ものへの憧れが強くてそちらばかり読んでいましたが、途中で太宰治とか梶井基次郎とかを読んでみたら、なんていうのかな、皮膚から染み入るほど分かる、と思いました。確かにあの頃の文庫の海外ものって、まずだいたい文体が一緒だからそれがトルストイの文章なのかドストエフスキーの文章なのか分からないし、登場人物の名前もいちいち表で確かめないと分からなかった。でもそれが日本の近代のものだと当然、頭で考える前に、物語の筋とかではなくて、その風情みたいなもの、悲しいとか色っぽいとかドライとかウェットといった物語の空気感がすごく入ってくる。またその頃って小説の色がとても濃密な時代ですよね。作家の色というか。そのくらいから小説が本気で好きになったんじゃないかなと、後から思います。

――では、いろいろなものを読み始めて...。

 そこからはいろいろなものを、背伸びも含めて読むのが好きになりました。相変わらずデパートに行く時と一緒で、慣れない場所に行くのが怖いんですけれど、本さえ持っていれば大丈夫だと思っていて。電車もバスも待ち合わせも、歯医者さんも(笑)、本さえ持っていけば怖くない。本を持ち歩いているのはその頃から、ずっと今もですね。

書店は出合いの場所

――読む本はどのように選んでいたのですか。

 本屋さんに行って買っていました。本屋さんが大好きだったんですね。だから今は、本当に、本屋さんの数が減っているのも困るし、あんまり売れない本はすぐに撤去されるのも、すごく困る。私が今中学生だったら、見つけられないと思う本がいっぱいあります。売れてる本とか有名な本はいいですけれど、棚差しになっている、聞いたこともない1冊で、なんか風情とかタイトルで「これ面白そう」と思って買って読んだら面白くて、まるで自分のために書かれたように思う、私はそうやって出合ってきた本があったんです。仕事のことだけじゃなくて性格も含めて、そうした出合いがあって今の私があるので、これからどうしようって、ちょっと思います。

――そうですね、書店って偶然の出合いを導いてくれる場所でしたよね。

 私はまだ、周囲に本の好きな人が多いので「あれ面白かったよ」といった情報もあるので探すこともできますけれど。ふらっと本屋さんに行ってほしい本が見つかる確率がすごく少なくなっていて、心配になります。私はインターネットはできないんですが、できればほしい本や知っている本は見つけられるかもしれない。でも、知らない本は見つけられないでしょうし。

――書店で本を見つける時って、どんなところに惹かれていましたか。タイトルのほかに、装丁とか、あらすじ紹介とか...。

 中学生や高校生の時は文庫で買うことが多かったので、装丁というよりはタイトルとか。端からひたすら読みたかったし、1冊気に入ったらその人のものを全部読んだりもしていました。
 で、高校卒業したあたりくらいからかな、単行本期に入ります。本屋さんに行くのが大好きでした。もう本当に、いろいろなものを買って、それはもう楽しかった。たとえば村上龍さんとか山田詠美さんがビッグニュースとなってダンっと出てきたのもその頃で、もちろん買っていました。
 ちょうどその頃かな、今でもすごく憶えているのが、ナタリア・ギンズブルグの『ある家族の会話』が、千歳烏山の京王書房に1冊棚に差さっていたのを買ったこと。京王書房ではいろんなものに出会ったんですよ。そんなに大きくはない町の本屋さんなんですけれど、とてもいいお店で。翻訳ものも結構あって、サリンジャーともそこで出合ったし、ラテンアメリカ文学ってどんなものだろうと思ってそこでガルシア=マルケスを買ってみたし。ジョン・アーヴィングに出合ったのもその頃だったと思います。未知のものがいっぱいある場所だったんですよね、本屋さんは。

――ああ、日本の近代文学の面白さに気づいた後も、海外小説は読み続けていらしたんですね。

 そうですね、中学時代の読書は見栄を元にしていたというのと、読んだ小説自体も名作と言われている古いものだったということがありますが、それとはまただいぶ違って、その頃単行本で出たアーヴィングやマルケスは、日本の近代文学が肌から入るみたいに分かったのと同じくらい、行ったことのない、南米なら南米の手触りとか空気がすごく分かるものでした。分かるっていっても、行ったことがないから知っているわけじゃなかったんですけれど。でも、本を通じて感じられたんですよね。実際に旅行する前に全部、本を通じて勝手に「アメリカの空気だ」「フランスの空気だ」「ドイツの空気だ」ということを知ったんだと思います。

――とりわけ好きな作家はいましたか。

 その時その時でいっぱいいたんですけれどね。あ、短大生の時には、尾形亀之助という詩人がすごく好きでした。
 どう言ったらいいのか難しいんですけれど、たとえば、「雨はいちんち眼鏡をかけて」っていう詩があるんですね。感覚的で、分かりやすいんです。私は勝手に、好きなものが似ているような気がしたんですね。雨とか、硝子とか、パンとか。雨や硝子は多くの詩人が読んでいますけれど、たとえば「コックさん」とか。すごく身近なもの、身の回りのものを詩にする人で、好きでした。
 それと、短大を卒業した時に1年間、「童話屋」という子供の本屋さんでアルバイトをして、その時にもう1回子供の本と出合ったことは私にとっては大きかったですね。その時にはじめてルパンとか、『海底2万マイル』とか、『トム・ソーヤーの冒険』とか『ハックルベリー・フィンの冒険』とか、子供の頃男の子用だと思っていたものを読みました。その時は、読んでこなかったことが悔しいという思いが半分、20歳の今だからこそ理解できる面があるかもしれないから取っておいてよかったという思いが半分ありました。

――読んでみたら、やっぱり面白かったわけですね。

 はい。その時に、『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』という本があって。うさぎたちの冒険の話で、今でも大好きです。20歳になって本もだいぶ読んできたはずなのに、人物表を見ないと分からないくらい、ものすごい数のうさぎたちが出てくるんですよ。人間だったらね、Gパン履いてる人とか、農業をやっている人とか作家の人とかってところで憶えられるんですけれど、全員うさぎだから表を見ないと分からない。表を見ると、たとえばアダムっていうのは白黒のぶちで、耳がこうでとか、誰が誰の子供とか誰が誰の姉とか書いてあるんですけれど、それを見ないと最初は駄目。でも憶えちゃってからは、もう止まらなくなるくらい面白い本だったんですね。上下巻で結構長いんですけれど、あんなに胸打つものが書けるんだなって。私にとっては小説の新しい可能性を感じたという意味でもちょっと新鮮だった本ですね。

旅するために書く

――童話屋さんでアルバイトをしていた頃って、もうご自身でも小説を書き始めていたのでは。

 そうですね、「お話つなぎ」とか、自分で遊びで書いているものの延長だったんですけれど。アルバイト先の本屋さんに「飛ぶ教室」という雑誌があって、短い童話の作品募集をしていて入選すると載せてくれて、10万円もらえるっていうのを知って。その頃の自分にとって10万円というのは大きかったんです。私はその頃、すごく旅行に行きたい時期だったんですね。お金を貯めたら旅行に出ようと思っていて、それでアルバイト感覚で応募していました。
 もしもアルバイト先が三省堂書店だったら、「すばる」や「群像」の新人賞の募集を見ていたかもしれないんですけれど、児童書の書店だったので、「飛ぶ教室」か「びわの実学校」といった雑誌があったんですよね。童話の募集の情報しかなくて、だいたいそれは10枚とか20枚とか短いもので、で、これは大きな間違いなんですけれども、「短いんだったら書けるかもしれない」と思ったんです。まあ、わりと作文の賞には入選する確率は高かったので、書くことはちょっと得意だと思っていたかもしれない。

――それで何度も入選して作品が掲載されて、賞金を旅行の資金に......。でも江國さんのお父さんの江國滋さんは、学校のスキー教室に参加するのもなかなか許してくれないくらい厳しかったそうじゃないですか。

 父には反対されましたね。20歳の頃に、すごく闘って闘って闘って、半ば無理やりのように出かけました。「行先も決めず、ホテルも決めない旅をしたい」と言ったら「もし旅先で何かあっても遺体の確認には行かないからな」と言われて「それでもいい」って言って。それって「客死」ってことになるからちょっと格好いい、と思ったりして(笑)。
 あの頃、最長の旅行で2か月だったかな。それは童話屋をいったん辞めていきました。アルバイトはフルタイムでやっていたし実家暮らしのすねかじりだったので、100万円くらい貯まったんですよね。それで、貧乏旅行で2か月くらい行きました。行くまで父は「駄目だ」と言っていたんですけれど、大きい駅にある電話センターみたいなところから家にコレクトコールしたり、葉書もじゃんじゃかじゃんじゃか出したりして、それで2か月して帰ってきて、すごく興奮して「こうだったんだよ」「ああだったんだよ」と喋ったら、父は感動しちゃって。「すごいな、すごいな。パパはそんなところに行ったことがない」とか「お前にそんなことができるとは」って言って、「これからはどんどん行け」って言うんです。だけれど、次に新たなことを思いついて伝えると「それは駄目だ」って言う。「この間は友達と一緒だったからよかったけれど、一人では駄目だ」って。「でも行く」と言って旅に出て、帰ってきて「こういうふうだった」と話すと「それはすごいじゃないか。良かった」って(笑)。

――江國さんの新作『彼女たちの場合は』も少女2人が親の許しを得ずに家を出てアメリカを旅する話ですけれど、その体験に通じていますね。父親の潤(うるう)は最後まで反対し、母親の理生那は最初は心配するものの、途中から応援をこめて見守る姿勢になりますよね。

 父は理生那タイプだったんですね。ふふふ。

――どのあたりを旅したのですか。

 2か月間の旅の時は、ヨーロッパに行きました。チュニジアにも、アルジェリアにも行きました。その時の一番の目的はアフリカ大陸の月の砂漠に行くことだったんですけれど、ヨーロッパにも行きたかったので。あの頃は1年オープンの飛行機チケットがあったんですよね。できるだけ遠回りして、できるだけいろんな国を見ながら行きたいと思っていて。

――その後、実際に留学されましたよね。その間も書いていたのですか。

 そうですね、留学しました。「飛ぶ教室」の素晴らしいところは、いったん入選すると依頼してくださるんですね。私にとって唯一依頼がある媒体で。季刊誌なので「毎号書いていいですよ」と言われても1年に4回ですが、留学先からも送って何回か載せてもらいました。『デューク』なんかは留学先から送って載せてもらったものですね。それを見てくれたんでしょうね、日本に帰った時に当時あかね書房にいた人と、新潮社にいた人から依頼をいただきました。

――小説家になるという意思よりも先に、小説家になっていた、という感じですね。

 そんなに格好よくないです。私は「毎日お勤めするなんて嫌だな」とか思ったり、英語を使ったお仕事をしたいと思って英会話学校の先生のアルバイトをしても、結局辞めてしまって。小学生のクラスを受け持っていたんですが、そうするとお父さんお母さんともやり取りをしなくちゃいけなかったりとか。その学校の決まりで、みんな日本人なのに英語名をつけるんです。「私はサラにする」とか「私はアリス」にするとか。私は「ジュリーのファンだからジュリーにする」って言っていたんですけれど、学校外でも英語を話さなくちゃいけなかったので、外を歩いていると生徒に「ジュリー!」って呼ばれるんです。それがもう恥ずかしくて(笑)。もう、いろいろあって、無理だなと思って、辞めました。何かやってみても、人に迷惑ばかりかけたり、できなかったりして、「書く」ってことだけが長続きしたことだっただけかもしれない。
 それに、「どうしてもこれになりたい」って思いつめたことがなかったんです。でもそれは、怖かったからかもしれない。「作家になりたい」って思ってなれなかった時にショックだろうと思って、決めるのが怖かったんだろうと思う。小さい時は多少、「デザイナーになりたい」「検事になりたい」と思ったことがありますが。

――え、検事ですか。

 うん、検事になって裁きたいと思った(笑)。法律というものが好きで、「法律にのっとって裁きたい」と思っていたことがあるんです。でも法学部を受験して落ちた時点ですぐ諦めましたから、「本気でなりたい」と思いつめたわけではなかったですね。あと、アメリカに留学する前は映画の字幕をつける人になりたかった。でも実際にはそれに向けての勉強を何もしていませんでした。
 それでも長続きしたのが「書く」ことでした。最初に連載の話をいただいたのが「るるぶ」という雑誌。そこで『きらきらひかる』を連載しました。連載として毎月書くっていうのは私としてはすごく働いている感があったんですね。でも、フェミナ賞をいただいた時、選考委員の瀬戸内寂聴さんからは、それまで私がふらふらしていたのを父から聞いていたのか、「小説を書くって、片手間にできるようなことじゃないのよ」「昔はね、行李いっぱい書き溜めてからスタートしたものなのよ。書くんだったら本気で書きなさい」って言われて、これ以上アルバイト感覚でやっていたら怒られると思いました。もう、覚悟するしかないって思ったように思います。

ミステリの魅力に気づく

――ところで、お父さんからは、読書などに関しては何か影響を受けているのでしょうか。お父さんの本棚にあった本を読んだ、とか...。

 うん、影響はあると思いますね。まず、本が身近だったというのは大きかったですね。父も母も本が好きでしたし、家に沢山あったし、家族はみんな本を読むのが当たり前でした。どの部屋にも本棚はあり、廊下にも本棚があり。だからその後、本棚のないおうちがあると知った時の驚愕...。「このおうちの本棚はどこにあるんだろう」って。なんていうのかな、本棚がないおうちって、トイレがないおうちみたいに驚きでした。
 それから、子供の頃に買ってもらっていた絵本や子供向けの本は古典的なものが多かったんですけれど、すごく面白い本を選んで買ってもらっていたなと思いますね。
 父の書斎にある本の背表紙を見るのも好きでした。で、時々読む。「どれでも読んでいい」と言われていて、あまりにも書斎に行ってそればかり読んでいたら「そんなに好きだったらやるよ」と言われたのが串田孫一さんの『文房具』。その後も、「串田孫一の本だからあげる」といって他のエッセイをもらったりしていました。
 父の書斎では、いろんな本の気配や言葉の気配に触れられたと思う。読んでないんですけれど、死刑囚の永山則夫の本で『無知の涙』があったんです。「無知の涙」という言葉があまりにも強烈で、その本の背表紙を見ずにはいられなかった。読んでないのに、その本のことはよく憶えているんです。「無知」と「涙」が組み合わさると破壊的に悲しいというか、怖いというか。
 一方、母の本棚も面白くて。母はポケミスが好きで、結構あったんです。ビニールがかかって、紙が黄色で、何か外国の本みたいだなと思っていて。小さい時は読んでみても、2段組みだし長いと思ってすぐ飽きちゃっていました。でも途中からはすごく借りて読むようになり、自分でも買うようになりました。母の趣味も面白かったな。講談社の読み物の『ムーミン』は昔買ってもらっていたんですけれど、漫画の『ムーミン』は母が自分のために買って自分の部屋に置いて、私には見せなかったんですよ。母の部屋で、漫画の『ムーミン』を見つけた時の私の驚きと喜び(笑)。全然漫画禁止の家ではなかったし、少女漫画は私も買っていたのに。たぶん母は、漫画の『ムーミン』を独占したかったんだと思うんですよね。

――ふふふ。ポケミスをお読みになったということは、それではじめて海外ミステリに触れたわけですか。

 中学の頃の、有名なものは全部読みたいという時期に、エラリイ・クイーンとかアガサ・クリスティーとかは何冊か読んでいるんですけれど、あんまり好きじゃなかったんです。私はたぶん、ミステリというものをあまり好きではないんだろうと思っていたんですよね。なぜかというと、トリックにあまり凝られても、種明かしみたいにされるとイラっとなるというか、「へえ」としか言いようがなくて。クイズに興味がないのと一緒で「こうだった」と言われてもな、って思っていて。でもそれがね、25歳か26歳の頃、今でも仲良しの大和書房の編集者の女の人が「じゃあ、絶対に面白いからこれ読んで」と言って、クレイグ・ライスを教えてくれたんですよね。そうしたらそれが本当に面白くて。それ以降の2~30年、私の読んでいる本の7割はミステリです。

――クレイグ・ライスといえばユーモアのある作風ですよね。どれを最初に?

 最初はどれだったかな、マローン弁護士ものの『大はずれ殺人事件』か『大あたり殺人事件』のどちらかだと思いますね。もしかしたら2冊いっぺんに買ったかもしれないです。で、ポケミスの中のマローン弁護士ものとかを探して読んで、その時に出ていた『スイート・ホーム殺人事件』とかも読んで、後に国書刊行会から出た本(世界探偵小説全集10『眠りをむさぼりすぎた男』)とかも探して。今にして思えば、1980年代のその頃くらいから、トリック重視の本格と言われるものではないミステリがいろいろ出てきていたんですよね。あと、ハードボイルドも好きでした。
 私にとっては、有名なミステリもほぼ読んできていないので、そこに宝の山があると思いました。当時シリーズものがいろいろあったんですよね。フェイ・ケラーマンが書いていたものとか、スー・グラフトンとか、女性作家が活躍していたんですよね。

――ああ、スー・グラフトンのキンジー・ミルホーンのシリーズとか、サラ・パレツキーのV・I・ウォーショースキーのシリーズが大人気でしたよね。

 そうですそうです、そういうシリーズですね。シリーズだから私が知った時はもう8冊出ている、みたいな状態だからガンガン読んで、あまりにもガンガン読みすぎて、本当にどの本屋さんに行っても全部読んじゃったくらいの勢いで、新刊を待つようになって。

――そういえば、江國さんの『なかなか暮れない夏の夕暮れ』には登場人物が読んでいる本の中味が作中に登場しますが、そのなかのひとつが北欧ミステリでしたよね。

 そうそう。あのちょっと前に『ちょうちんそで』という小説を書いた時に、人を殺す場面を書こうと思っていたんですね。社会の中に、やくざとかじゃなくて普通の人でも、人を殺しても捕まらずに生き延びている人というのは本当にいるに違いない、ということが書きたいと思っていて。でも、どうやっても殺せないんですよ、怖くて。最初に刺すってことを考えて、でも刺す場面が書けなくて、鈍器で殴るとか崖から突き落とすとか考えたけれどどうしてもできない。結局、轢き逃げに落ち着いたんですけれど。意図的に殺しちゃうんじゃないことにしました。でもそれを隠蔽するので、犯罪になるという。それでも、それを隠蔽する、台風の日に川に落として流しちゃう場面を書いた後、もうご飯も食べられないくらい手が震えちゃって、自分が人を殺したみたいな感じだったの。
 それなのに、『なかなか暮れない夏の夕暮れ』の中で、主人公が読んでいる本の中のこととして書いたら、喉を掻っ切るといったこともガンガン書いちゃって(笑)。血しぶきとか、全然平気で書いていました。自分で書いているのに、よその人が、北欧の人が書いた本の中の話だとして書くと全然平気なんだなってことが不思議でした。

普段の読書スタイル

――ところで、プロの作家になる前と後で、読書生活に変化ってありましたか。

 読書に関しては、本当に変わりないですね。読んでいる時間のほうが書いているより長いくらいだし、何も変わらないし、今も絵本も好きだし。人生の前半分よりも後半分はミステリがすごく増えたという変化くらいかな。書けなくても耐えられるけれど、読めなかったら耐えられないと思う。

――「この人のここがうまいな」とか「こういう描写いいな」とか、作家の目で読んでしまうということはないですか。

 私は読む時は完全に一読者ですね。まあ、仲良しの作家で、たとえば井上荒野さんは、あの人本当に上手なので、「これがすごい」と思ったり、「悔しい」って思ったり、「こういうのは絶対に敵わないな」って思ったりはしますけれど。それは本当に親しい何人かのことだけで、あとはあんまり書き手としては読まず、読み手として読みます。

――それにしても、なぜそこまでミステリが多くなったのでしょう。ご自身で本格的なミステリを書きたいとは思わないわけですよね。

 うん、まったく無理だと思いますね。そういう脳みそじゃないから。

――海外ミステリは、どのように選んでいるのでしょうか。

 だいたい分かるんですよ。実際に本を手に取ると。後ろの説明とか、タイトルとか、風情とかで。レコードのCDのジャケ買いは、よくとんでもないものを買ってしまったりするんですけれど、本のジャケ買いというか表紙買いで失敗したことはほぼないです。ただ、海外ミステリの文庫は同じものを買っちゃうんですよね。しかも最近、「装いも新たに」って刊行されて平積みされていることも多いから、新刊だと思って買って途中で「あれ、これどこかで読んだ」って思うこともあります。

――新装版とか、新訳ってやつですね。でも、私だけかもしれませんが、夢中になって一気読みしたミステリほど、案外、犯人を忘れちゃったりすることとかありまして......。

 うん、私もします、します、します。ストーリー自体も軒並み忘れてますよ。だって数が多すぎるし、似た話も多いし。でもやっぱり、気配と、強烈に面白かったことは憶えているんです。
 今だったら何だろう、デニス・ルヘインの新刊が出たら絶対に買うとか。『犬の力』のドン・ウィンズロウも出たら買いますね。

――そういえばボストン・テランの『音もなく少女は』でしたっけ、江國さんが推薦コメントを寄せていましたね。

 あ、テランもそうですね。犯人が誰かとかトリックではなくて、主人公にせよ犯人にせよ、その人たちの暮らしぶりとか、壮絶な生き方とか、そういうものが見える話が好きなんですね。だから私はミステリではない普通の小説を読むのと同じ気持ちでミステリも読むんですけれど、ミステリは多くの普通の小説以上に、些細なことが大事になってくるじゃないですか。殺すか殺されるか、追うか追われるかの状態で、バンバン血が流れる世界の中で、たとえば明日死んじゃうかもしれない時に恋人ができたら、二人で朝コーヒーを飲むっていうことの幸せがより貴重になったりする。日差しも何もかもが、より感じられるというか。だから、登場人物とか人生とかが見えるものが好きなんだと思う。

――ミステリ以外の読書でも、海外小説が多いですか? 英米文学の現代作家などたくさん読まれている印象ですが。

 多いと思います。英米文学に限らず読みますね。
 最近はジョン・ファンテの『満ちみてる生』とか。イタリア移民の子なので血はイタリア人なんですけれど、アメリカで生まれ育ったのでアメリカの作家になるのかな。イタリア社会のことを書いているんです。最初に読んだ小説は『満ちみてる生』で、それから探して『デイゴ・レッド』というのと『バンディーニ家よ、春を待て』というタイトルの3冊を読んで、どれもすごく良くて。それが最近私の新しく知った好きなもの。昔、『ある家族の会話』を見つけた時に近い喜びがありましたね。この3冊は全部、未知谷という出版社から出ています。書店で「これ、なんだろう」と興味を持ったり面白そうって思うものがそこの会社の本であることは多いですね、私は。

――本を読む時は、付箋を貼ったり、線を引いたり、ページを折ったりなどしますか。

 決まったことはないです。でも、すごく憶えておきたいとか、誰かに言いたいっていう文章があった時には、そこのページは折っておいて、読み終わってからその言葉をもう1回読んで、すごくすごく感激したら手帳に書き写したりします。あとは、もしも後で誰かに話すとか、書評するという時に大事だなと思うところにチェックを入れたりもします。でも本を閉じてしばらくすると、自分がどの本にチェックを入れているか忘れちゃっているので、あんまり使えないですね(笑)。すごく昔に大好きだった本をたまに読み返す、もしくは人に紹介するために手に取ってみる、という時にチェックが入っているのを見て、なぜそこにチェックを入れたのかどうしても思い出せなかったりもする。あるいは「こんなところで感動したのか、私」「こんなところにチェック入れてるっていうのはちょっと安いな」ということもあります(笑)。「ああ、あの頃の私が気に入りそうな言葉だな」って、ちょっと恥ずかしくなりますね。

本を読む場所、そして新作

――普段、どんなところで読みますか。

 どこででも読むんですよ。だけど一番は、私、毎日朝起きて2時間お風呂に入るので、その間はずっと読んでます。それがたぶん、1日にまとめてする読書の量としては最長で、その他も、電車の中でも寝る前でも読んでいます。

――お風呂で読む時って、濡らさないにしても、本が湯気を吸ってふわっとなったりしませんか。

 私はカバーを外して読むんですが、ずっと持っている部分とか、本の下の部分が擦れたようになったりはしますね。でも私はそういうのは全然気にしなくて。カバーをかけてしまえば元通りだしね(笑)。ページを折るのも平気だし、うたたねしてザバッと落としてしまうこともありますけれど、ちゃんと拭いて、ちょっと波々になっちゃってもあまり気にしないです。でも1回、妹の六法全書のコンパクト版を借りてお風呂で読んでた時に、湯舟に落としてもないのにまったく閉じなくなっちゃって。妹が学生の頃だったんですけれど、しょうがないからもう1冊買って返したってことがあります。

――お風呂で六法全書を?

 法律が好きだったから。本当の六法全書じゃなくて、コンパクト版ですよ。その六法全書、サウナでも読んでいたんです。そっちが悪かったのかな。サウナに入ってその後お風呂の中で読んで、そうして出てみたら、本がすごいことに...。重石したりして何日か頑張ったんですけれど、全然直らなかった。

――そんなことが(笑)。ところで、書店で見つける意外に、本を選ぶのに参考にするものはありますか。書評とか。

 ありますね。私はあんまり新聞は読まないんですが、ファッション雑誌を読んでいて偶然見た書評とか、出版社から送っていただいた雑誌の書評で気になるものがあったら、ページをちぎって本屋さんに買いに行きます。でも、鞄にそのページを入れて何週間か経ってから本屋さんに行くと、もう絶対と言っていいくらい、無いの。それで注文するんですけれど、そういう時、書評で読んでなかったら私は本屋さんに行ってもこの本とは巡り合ってないんだなって思いますね。書評を眺めていて良かったと思う。

――小説の登場人物を考える時、その人がどんな本を読んでいるか考えることはありますか。新作『彼女たちの場合は』は、ニューヨークに住んでいる従姉妹同士、17歳の逸佳と14歳の礼那が「もっとアメリカを見なきゃ」といって旅に出ますが、礼那が本好きで、アーヴィングやミランダ・ジュライ、村上春樹や太宰治を読んでいますね。

 いつも書き始める前に、登場人物の性格設定をノートに書いておくんです。身長とか誕生日といった、小説に書かないような部分も含めて。礼那の場合、ニューヨークに5年住んでいるので、日本の現在の新刊はあまり読めていないと思いました。両親の本棚から読んでいるとすると、少し上の世代が読むようなものや古典、普遍的なものを多く読んでいるだろうなと思ったんですよね。そういうものを作った上で、たとえば、こいういう本を読んでいるならこういう子なんだろうな、と考えていくんですね。行先を決めていない旅に出るという時に、アーヴィングが好きならきっと『ホテル・ニューハンプシャー』の舞台に行ってみたくなるだろうな、とか。それが彼女たちが最初にニューイングランドに向かった理由のひとつでもありますね。

――行先も目的もなく旅立ち、ニューイングランドから、オハイオ、テネシー......と旅を続けていく。移動するごとに町の景色も人々の様子も、食べる料理も変わっていって、それがすごくリアルで。江國さんも実際にこのルートを辿ったことがあるのですか?

 行ったことのあるところもあれば、ないところもあります。映画を観てイメージがあった場所もあるし、写真集やガイドブックも見ましたね。そのなかで、小さな変化を拾いたいと思いました。それで海のほうへ行かせたり、山のほうへ行かせた部分もあります。ただ、今回は旅をするのが子供たちなので、お酒が飲めないし、グルメなことができなくて(笑)。いつもハンバーガーとフライドポテトやデリのサンドイッチだとつまらないので、せめてシーフードを食べようとか、せめてパンケーキを食べようとか、できるだけバリエーションを出すようにしました。

――そうだったのですか。もう、彼女たちと一緒に旅をしている気分になって、のめりこみました。いろんな出会いがあり、トラブルもあり、その一方で、彼女たちを案じる親の心情の変化も描かれる。少女たちのロードノベルを書こうと思ったのはどうしてですか。

 留学していた頃に、実際に女友達と2人で行先も決めずにアメリカを旅したことがあったんです。でも意気地なしなので、1週間くらいで戻ってしまって。その体験を「小説すばる」の当時の編集長に話したら「面白いから小説に書いてください」と言われたんです。もうひとつの理由は、自分の年齢が上がるにつれ、小説の登場人物たちの年齢もあがってきていて。なんとなく、釈然としなかったんですね。若い人が書けないと言われると悔しいので、書いてみたいと思っていました。それで、子供と大人の中間くらいの年齢の女の子2人の旅になりました。

――行先も目的もなく、長期間、気の向くままに旅してみたくなります。働いているとなかなか難しいですけれど。

 私も若い頃、そういう旅をしてみたかったし、ちょっとはしてみたわけですが、そんなにいろんなことができるだけの度胸もお金もなかった。今はお金はあっても時間がない。私の場合、旅先でも原稿は書けるので、やろうと思えばできるんですけれど、でも旅をするのってちょっとものを捨てる、見捨てることのような感じはして、今はその思い切りがつかない。うまくいかないものですね(笑)。

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