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桑の実と母 内田麟太郎

 図々(ずうずう)しい宣伝には、その図々しさに、ときどき笑いを誘われるときがある。これもその好例かもしれない。

 それでごくごく控えめに書くけれども、私の故郷・大牟田市の動物園敷地内に、絵本美術館が出来る。開館は再来年の春。名前は、まだ決まっていないが、降矢(ふりや)ななさんの「おれたち、ともだち!」シリーズの絵本原画が常設展示される。絵本の文は私。楽しい企画展もあれこれと構想中だ。

 その絵本美術館のそばにキリン舎がある。キリンの名前は、リンちゃん。亡き母が私をキリンだと思ったのかどうか知らないが、母も私をそのように呼んでいた。「りんちゃん」。

 へんな縁はまだあり、キリン舎のある丘陵には、かつて若宮病院があった。母はそこで亡くなった。父の漕(こ)ぐ自転車で駆けつけたときは、母の顔にはすでに白い布がかけられていた。それが母の最後の記憶である。享年二十八歳。私は六歳になったばかりだった。

 だから私はおふくろの味を憶(おぼ)えていない。「六歳でありながら。おまえがぼんくらだからだ」といわれれば否定はできない。父も、常々、私はぼんやり者であったといっていたからだ。ここは丁寧に読んで頂きたいのだが、父は「ぼんやり者だ」といったのではない。「であった」と過去形でいったのである。重要なところだろう。

 そんなわけで、おふくろの味は憶えてないが、おふくろとの味ならいくつかある。故郷大牟田市は、三井三池炭鉱の町であった。石炭は軍隊を運ぶ汽車や船を動かす。アメリカの標的になり、平ぺったい町にされてしまった。焼夷(しょうい)弾だ。空襲は予期されていたので、父は、妻と四歳の私を、熊本県北部の菊池川のほとりに疎開させた。

 食べものは乏しい時代である。

 蛍の餌になるカワニナを、塩湯で湯がき、爪楊枝(つまようじ)でほじくっては食べた。不味(まず)かったという記憶もないが、うまかったという記憶もない。

 開く前の茅(かや)の穂もよく食べた。これはほんのりとした甘みがあり、従姉妹(いとこ)たちも好きだった。そんななかでも、いちばんおいしかったのは、母と食べた赤紫色に熟れた桑の実だ。いま住んでいるご近所に、桑の木がある。六月も終わりになると、桑の実が甘く熟れる。持ち主にお願いし分けて頂く。

 桑の実の甘さが、口中にひろがる。すこし酸っぱいときもあるけど、やわらかく口の中で崩れる実には、なんともやさしい甘さがある。好きなのは桑の実が甘いからだけではないのは、私がよく知っている。母に会いたいのだ。

 桑の実を一緒に食べた母の名は、ハルノ。春の野だろう。絵本美術館の開館も春。これを母の加護といわずしてなんであろう。

 過保護じゃなくて、加保護ね。=朝日新聞2019年6月15日掲載