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「井上陽水英訳詞集」書評 精緻でしなやか 「余白」を掬う

評者: 西崎文子 / 朝⽇新聞掲載:2019年06月29日
井上陽水英訳詞集 著者:ロバート・キャンベル 出版社:講談社 ジャンル:芸術・アート

ISBN: 9784065131312
発売⽇: 2019/05/16
サイズ: 22cm/301p

井上陽水英訳詞集 [著]ロバート・キャンベル

 この本を書評すると言うと、いつになく多くの人に声をかけられた。それぞれの陽水体験を話してくれたり、陽水が英語で歌った30年以上前のカセットブックを紹介されたり。
 でも、本書はあくまでも日本文学者キャンベル氏の著作。8年前、命に関わる病気の中で、陽水の詞を英訳し、その「歌詞世界に深く降り立つ」決意をしたことから生まれた稀有な本だ。
 嬉しいのは、いきなり英訳版を読者に供すのではなく、完成までの過程が丁寧に記されていること。日本語の世界の「軽やかさの底には深みがあり、深みは余白につながり、余白の中で読者は想像力をかきたてられる」と考える著者は、日本語と英語とを往還しながら、この「余白」への接近を試みる。一つの方法が、歌詞を日本文学史の文脈に位置づけることだ。永井荷風から江戸時代に流行ったイソップ寓話まで、引照される作品は実に多様だ。
 もちろん、陽水との対話も重要だ。たとえば「都会では自殺する若者が増えている」という出だしから、「だけども問題は今日の雨 傘がない」への転換が印象的な「傘がない」。I ’ve Got No Umbrellaと訳そうとする著者に対し、陽水はこれは「『俺』の傘ではなく、人間、人類の『傘』なのです」と答える。
 あるいは「最後のニュース」で、環境破壊や戦争に触れたあと「今 あなたにGood-Night/ただ あなたにGood-Bye」と続く結び。これもJust for youではなく、「かける言葉はいろいろあるかもしれないけれど、『グッバイ。ただこの言葉ぐらいかな』みたいなニュアンス」だと。人称を特定するとこぼれ落ちてしまう「余白」が掬い上げられる。
 できあがった英訳は、心憎いほど精緻で、しなやかだ。そして妥協を許さない。「翻訳は基本的に原作に隷属すべき」であり、事象を足したり引いたりせず、取りこぼしを少なく、という著者の潔さが印象的だ。
    ◇
 Robert Campbell 1957年、米ニューヨーク生まれ。国文学研究資料館館長。専門は近世・近代の日本文学。