「おお、これこれ」トレイの上の赤々としたさくらんぼがみっしりならんだパイを見て、伯父さんが顔をかがやかせる。「モリーのチェリーパイ、すんごいうまいんだぞ。まあ食ってみろや」(中略) 確かにそれは、あはは、と思わず笑いだしたくなるおいしさだった。バターのしみたパイ生地が口のなかでほどけ、ひかえめな塩味が広がった後に、みずみずしいさくらんぼの果肉がとろけた。 (『チェリー』より)
初夏から夏にかけて旬のイメージがあるさくらんぼは、真っ赤に輝く宝石のような見た目と甘酸っぱさで、国内外問わず愛されている果物の一つですよね。今回ご紹介する作品は、チェリーパイ作りが得意な、ちょっと変わったおばあさんと出会った少年の物語です。
4歳から12歳までアメリカで過ごした中学生の祥太は、両親の離婚を機に日本に帰国するも、中々学校になじめないでいました。中学生になった最初の夏休み、祥太は伯父さんと共に再び渡米し、遠い親戚にあたるモリーという不思議な女性と出会います。モリーの奇妙な行動に戸惑う祥太ですが、少女のように無邪気なモリーと過ごすうちに、いつしか二人の間には強い絆が芽生えていきます。本作にはチェリーを使った料理がたくさん登場しますが、中でもモリーの作るチェリーパイは、初めて食べた祥太も思わず笑いだしたくなるほど絶品!で、その後の二人の関係を築き上げるカギとなっていくメニューです。著者の野中ともそさんに、チェリーの思い出や、現在お住いのニューヨークでの食生活などを伺いました。
作品の構想はとっさの思い付きから
——本作のタイトルにもなっているチェリーを本作の題材に選んだ理由を教えてください。
行きがかり上というか、偶然なんですよ。アメリカのミシガン州に、トラバースシティというチェリーの生産地で有名な町があって、そこに義理の妹家族が住んでいて何度か遊びに行っていたんです。そんな時、たまたま連載の構想を編集の方々に訊かれ、とっさの思い付きで「さくらんぼはどうでしょう!?」と口走り、そこからあれよあれよと決まりました。連載開始時は『ギャングスタとさくらんぼ』だったのですが、単行本化の際に『チェリー』に変えました。今ではそのシンプルで瑞々しい響きがしっくりくる気がします。
チェリーそのものに関しては、実際に執筆を始めてから色々調べ始めたのですが、酸味が強いため、主にお菓子用に使われる「タルトチェリー」が栄養素的にすごく優れていると知り、そこから妄想がふくらんで、さくらんぼ小屋でモリーがタルトチェリーの濃縮液を魔法の薬として人々に分けてあげる場面を思いつきました。そうやって、自分でも好きだった果実を調べていくうちに「モリーならこんなお菓子作るかな」、「こんなものを作ってほしいな」というエピソードが生まれてきて、書いていてもワクワクしましたね。
—— 現在、ニューヨークにお住いの野中さんですが、そちらで感じた食文化や食生活の発見はありますか?
ニューヨークは食の玉手箱のような感じで、人種の多様性と共に、それぞれの食文化やコミュニティーがあります。アフリカ料理やミャンマー料理、レバノン料理等々、実際にその国の人が、外国人向けでなく本場のレシピで作る、真の意味でのエスニック料理を味わえるのが魅力ですね。ちなみに、今住んでいるのはユダヤ人の多い地域で、ベーグルやピクルスがとても美味しいんです。最近もご近所にフライド・ピクルスのお店ができたんですが、漬物を揚げるという発想が新鮮でした。今、ニューヨークに住んで27年目なのですが、まだまだ発見の連続で、食いしんぼうにはありがたい街です。
—— アメリカの人たちにとって、チェリーパイは身近な食べ物なんですか?
アメリカ人はパイ好きなので、フロリダ州なら「キーライムパイ」、テキサス州なら「ピーカンパイ」という風に、その州の特産物によって色んなパイがあるんです。チェリーパイも、ミシガンやワシントン州の定番デザートという感じでしょうか。定番のお菓子に、その土地土地の特色が加味されているのが楽しいですね。
——祥太がモリーと最後に作ったのもチェリーパイでした。パイの上にのせるさくらんぼを「すきなように飾っていいよ」とモリーに言われた祥太は「M」という文字に並べます。オムライスにケチャップで好きな人の名前を書きたくなるように、祥太はモリーへの想いを込めて「M」にしたのかなと思いました。
孫とおばあちゃんほど年の離れた二人なので、祥太にとってモリーは恋愛感情以上の深い想いがあるんですね。 なので、好きなように飾っていいと言われてぱっと頭に浮かんだのが、モリーの頭文字の「M」だったのでしょう。言葉に言い表せないその想いを、一粒一粒に心を込めて託したのだと思います。そしてモリーも「お返し」にあるパイを思いつくのですが……。その辺は本作を読んでいただければ(笑)。
—— 野中さんのチェリーへの思いを教えてください。
私はチェリーの味とともに、その姿かたちがとても好きなんです。なんて愛らしくて完璧な形なのかと。本作の冒頭で、チェリーの形をしたアンクレットを主人公の「こいびと」が惹かれて買うんですが、あれも実は自分の体験(笑)。さくらんぼ柄の雑貨もつい買っちゃいます。それから、義妹がミシガンから時折送ってくれるギフトには、チェリーが香るソーセージやマスタードにチェリーを砂糖で煮たプリザーブなど、チェリー風味の詰め合わせが多いんです。特に甘さとスパイシーさが絶妙なBBQソースは、スペアリブを焼く時に欠かせないので「また送ってー!」と催促しちゃうこともあります(笑)。さくらんぼの玉手箱が届くのを秘かに心待ちにしているんです。
いつか、チェリーの形そのもののお菓子を作れたらいいなぁと思っているんですよ。和菓子でもいいんですが、形だけでなくチェリーの風味、その存在感を凝縮したような愛らしいお菓子を作って、モリーみたいに親しい人たちに配ってみたいです。これは茶道にも通じるのかもしれませんが「丁寧に点てたこのお茶を味わってほしい」、「このお菓子で笑顔になってほしい」と相手を思いやる心が隠し味というか、全てのような気がします。人見知りなくせに傍若無人なモリーが作るものは、お金儲けや知名欲とはまるで別の次元の「誰かのため」という素直な気持ちしかないんです。そんな料理に自分もめぐりあえたら幸せですね。