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ギムレットには早過ぎる 真山仁

 高校時代にレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』に夢中になった影響で、大人になったら、絶対飲むぞと心に決めていたカクテルがある。

 ギムレットだ。ハードボイルドの傑作であるこの物語の中で、主人公の私立探偵フィリップ・マーロウが、バーでレノックスという男と意気投合し、会う度にギムレットを酌み交わすのだ。ギムレットへのこだわりだけでなく、酒を通じて、氏素性を知らない者同士がカウンターで友情を育む過程は、実に見事で、そのラストに登場する「ギムレットには早過ぎる」というセリフはあまりにも有名だ。

 私が小説を執筆する時も、酒を飲む場面を大切にしている。

 酒は、互いが心を開き向き合う時の小道具として、とても効果的だ。

 酒を飲んで腹を割るという単純な理由ではなく、酒場に漂う空気と酒を飲む時の心持ちが、人を素直にしてしまうのだ。

 現実の世界でも、真剣な話題で話し込むのは、静かなバーにいる時のように思う。それも、一対一が望ましい。

 さて、成人を迎えた私は、いよいよギムレットを飲むぞと意気込んだ。友人と連れだって、京都のバーへ繰り出した。

 最初はウイスキーを飲み、心も体も解放感に酔いしれた後、ギムレットを頼んだ。

 まずはライムの香りが鼻孔をくすぐる。そして、ライムジュースの甘み、遅れてガツンと喉(のど)を刺すような強烈なジンが流れ込んできた。

 二十歳の私は、これが大人の味、ハードボイルドの風格だ、と悦に入ってしまった。

 以来、四十代を迎えるまで、どれだけ酔っていても、その日の最後の酒は、ギムレットと決めていた。

 ある時、行きつけのバーテンダーに「ジュースは入れず、果汁だけの方が美味(おい)しい」と薦められた。

 ジンのエッジがさらに際立ち、ライム果汁の爽やかな香りが花開くそれは、今まで飲んだどのギムレットよりも、男前の旨(うま)さだった。

 ところが十年ほど前に、突然、ギムレットが飲めなくなった。ジンベースの酒を飲むと、必ず気分が悪くなり、胃が燃えるように熱くなる。

 やがて、ジンの他にも気持ちよく飲める酒と、そうでない酒の種類が変わった。

 ギムレットが好きなことを知る友人は、「仁というペンネームのせいで、飲めなくなったのでは?」とからかう。
 だが、私は別の解釈をしている。

 大人としてもっと揉(も)まれ、己を磨け。おまえには、まだギムレットは早過ぎる、と。=朝日新聞2019年9月28日掲載