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源流の釣り、イワナとカジカと 村上康成

 二十代から三十代は、キャンプと釣りに没頭していた。体力的にはなんら支障もなく、金はないけど、貪欲(どんよく)に精力的に目的をこなしていった。食料はアルファ米と味噌、非常食の魚肉ソーセージ、それで充分うれしかった。

 そんな秋、谷川岳源流へ釣りに出かけた。テントを張り終えると、まずはカジカ釣りに興じた。愛嬌(あいきょう)のある顔とハゼをずんぐりむっくりさせたプロポーションからは、想像しにくいが、旨味(うまみ)成分凝縮の、極めて美味(おい)しい魚なのである。沢は秋の日を照り返し、石とぶつかりながらスキップするように流れている。カジカは石の下に潜んでいて、上から流れてくる川虫などの餌を待ち受ける。

 川岸のネコヤナギを折って竿(さお)にして、そっとミミズを送り込む。ツツツ、ツツツと持つ枝に手ごたえが伝わる。合わせを入れてやると、石の下から、七、八センチくらいのすっとぼけた顔が、現れる。また次の石へ仕掛けを送り込む。

 カジカの入ったスーパーのポリ袋がポン、ポンと中で弾けている。テントに戻り腹を出す。

 そして、イワナ釣りへ。初心者だった私には、こちらはなかなか手ごわい。しかもフライフィッシングでという愉(たの)しみも併せてのものだから。沢の水が流れ込む溜(た)まりに、ポワンとフライを振りこむと、パクンとイワナが出てくる、そして私の心を震わす、はず…。源流の秋はまさにつるべ落とし。あっという間に屏風(びょうぶ)のような稜線(りょうせん)に日は消え、薄青い空にアンズ色の雲が浮かんでいる。ひんやりとした冷気が私を包んでいく。

 やはり、おいそれとイワナは相手をしてくれなかった。それでもとり憑(つ)かれたように奥へ奥へと沢を上った。もう帰らないと…。自分のフライが闇にかろうじて見え、流れていく。消えた。? 竿をあおると、糸の端から、重く強い抵抗が伝わってくる。釣れたんだ!

 ようやく手にしたイワナはまさかの尺物、三十センチを超えていた。闇の中で掴(つか)んだ生命体が暴れくねる。「ごめん!いただきます」。無我夢中で、ボコン、ボコンと岩に頭を打ちつけ、野締めした。恐れと畏(おそ)れで、抜けた腰のまま、這(ほ)う這うの体で、テントに戻った。

 たき火にかざした大イワナから、ジュルジュルと脂がしたたる。焼かれた白い無念の目を見つめる。それとカジカだけの味噌汁、浮かぶ脂。湯で戻したアルファ米と、この源流を食す。もちろん新潟の地酒と。これはいくら重くともザックに入れなければならない。

 そして星空とのナイトキャップは、流れの中の冷たい石ころをカップに入れて、バーボンのオンザストーン。谷川岳の豊かさに包まれ眠った。背中の石が痛いけど、どうでもいい。=朝日新聞2019年10月12日掲載