言葉めぐる闘い、手触り頼りに
本年ノーベル文学賞に決まったオーストリアの作家ペーター・ハントケは、日本ではあまり馴染(なじ)みがないが、現代ドイツ語圏文学を代表する重要な作家である。
少し古い話になるが、ハントケがヴィム・ヴェンダース監督と組んで脚本を書いた映画「ベルリン・天使の詩」(一九八七年)は、日本でも広く知られた。一九九〇年代には、内戦を経て解体していった旧ユーゴスラヴィアをめぐる論争にみずから関わり、欧米諸国による「人権的」介入やNATOの空爆、またメディアによる世論操作およびそれに同調する知識人や作家を激しく批判し、それによってみずからも集中砲火を浴び、「親セルビア的」との烙印(らくいん)を捺(お)されて孤立したが、その後もその姿勢が揺らぐことはなかった。
このような彼の姿勢は、言葉のありかたを常に模索している詩人として、通念や大勢に依拠した安易な語法を許さないという揺るぎのない姿勢からくるものであると共に、彼の出自とも深く関わるものである。
ハントケは、第二次大戦中の一九四二年、スロヴェニアと国境を接するオーストリア南部のケルンテン州グリッフェンで、スロヴェニア系の母と、当時当地に進駐していたナチス・ドイツ軍に属する既婚の男性とのあいだに生まれたが、ハントケが生まれたとき、彼の父は既に母の許(もと)を去っており、母は、別のドイツ軍の兵士と結婚していた。ハントケは、故郷の村でスロヴェニア系の母の家族を身近に見ながら、貧しい幼少年時代を過ごした。現在はパリ郊外に住んでいる。
彼の人生は、複雑な出自に象徴されるように、戦中・戦後ヨーロッパの激動の歴史を体現したものといえるだろう。
作家としての彼の出発点は、一九六〇年代後半の『観客罵倒』や『カスパー』等のように、前衛的な手法によって言葉のありかたを問うもので、そのため、当初はアヴァンギャルドのスター作家のようにみなされたが、その後、母の自死のような危機的な体験などを経て、その思索や方法は、何回か転回しつつ、幅と深さを増してきた。
その作品は、彼の原点である、世界に向けられた言葉をめぐる闘いを内包しつつ、自己や世界についての探究のプロセスを表現したものであるが、近年は、流通している(「通りのいい」)多数者の言語に対して固有の感覚的な手触りのある言葉や想像力を対置させる方向をいっそう明瞭にしている。そこでは、時には、日常の時間や自然との関係、時には、アクチュアルな時代を映したようなテーマが採りあげられているが、いずれにしても、その世界は、決して平穏で静謐(せいひつ)な世界ではなく、まさに或(あ)る作品の題名が象徴的に表しているように『いまなお嵐』(二〇一〇年)が吹き荒れているような、あるいはその可能性をはらんだ世界であり、そこに語り手自身が存在の変容または解体に曝(さら)されつつみずから巻き込まれている。
このような彼の言葉をめぐる闘いの行方を今後とも注視していきたい。=朝日新聞2019年10月16日掲載