母から受け取った「罪と罰」
「三蔵」は母方の祖父の名前、「松永」と「K」も家族や親族に由来する。芥川賞の「受賞の言葉」では、小説家になることを母の墓前に誓った、とある。小説家でこんなに家族に言及するのは珍しい。
「それ、受賞パーティで川上未映子さんにも言われました」
小説との出会いも家族がきっかけ。中学生の時、ドストエフスキーの『罪と罰』を母に勧められた。
「衝撃を受けました。それまで世界は地平やと思ってたんですけど、縁に連れてこられ、その深淵を見せられた気がしました。世界はここまで深く、豊かだったのかと感動しました。自分もこういうのが書きたいとノートに殴り書きしたのが初めて書いた小説です。14歳やったかな」
この感動を誰かに届けられるようになりたいと、小説家を目指すように。ただ、本格的に応募を始めたのは30代に入ってからだそう。
「若い頃は完成させられなかったんです。断片的には書けるけれど一つの作品として仕上げるのが難しかった。ようやく自分の納得いくものができるようになったのは30代半ばになってからでした」
書くことに夢中「オモロかった」
30代後半からは毎年、3月締め切りの新潮・すばる・文藝の新人賞のうち、どれか一つと9月の文學界新人賞、10月の群像新人文学賞、12月の太宰治賞の4作は応募し続けた。会社員をしながらどうやって書く時間を捻出したのだろう。
「今もそうなんですが、出勤前に勤務先近くの7時開店の喫茶店に行って9時前まで書くというのを続けています。私は山の近くに住んでいて、駅まで徒歩だと約1時間、バスの時もありますが、たいていは徒歩で行き、歩きながら構想を練って、電車に乗って店に着いたらすぐ書き始めます。だいたい1日に書けるのは原稿用紙10枚。すると20日で200枚書けることになる。もちろん、それは粗い、半分プロットのようなものなので、そこから何度も推敲を重ねます」
2021年に群像新人文学賞の優秀作をとるまで、新潮新人賞の2次選考通過が一度あったきり。そのほかは1次選考すら通らなかったそう。それでも応募を続けた、その淡々とした強い力はどこから?
「単純に書くことがオモロかったんです。一作書いて応募すると、結果はだいたい半年後なので、その前に次の作品を書き出している。だから落選という結果が出ても、その時書いている作品に夢中になっているので、そんなに気にならなかった。それはもう半年前のことなので」
小説家を目指しながらも、普通に大学に行き、就職もして、家庭を持った。すべてをなげうって小説を極めたいといった葛藤はなかったのでしょうか。
「今の時代に純文学をやろうと思ったら、兼業はスタンダードだと思います。就職する際もそれ前提で、どんな仕事なら小説を書き続けられるのか、とずっと考えていました。とはいえ仕事や家庭が小説に侵食してくることは防げない。でも、それがいいんですよね。自分の想定を超えたものに巻かれていく感覚こそが、まさに小説的。それこそが働くこと、生きることであって、その想定外に溺れる感覚が小説に生きる」
新人賞受賞後、第1作の推敲に足掛け3年
2021年、41歳のとき、「カメオ」で第64回群像新人文学賞優秀作を受賞。これまでの応募作とは違った手ごたえがあったのでしょうか。
「いえ、受賞は意外でしたね。『カメオ』を書いたとき、これは純文学ではカテゴリーエラーで弾かれるんじゃないかなって思ったんです。でも書けたから出しておくか、というくらいで。新人賞の中でも懐の深い印象があった『群像』に出してみたんですけど、期待はしていませんでした」
大賞ではなく、優秀作での受賞に引け目はありましたか。
「受賞の連絡をいただいたとき、優秀作でも群像に書かせてもらえるんですか?って尋ねたら、デビューなので、それは大賞でも優秀作でも変わりないですよと言ってもらって、なら十分だ、と。担当編集さんにアドバイスもらいながら進められるし、そのやりとりが面白く、ありがたかったです」
ただ、そこからが長かった。
「『バリ山行』は、『カメオ』を書いたすぐ後に書き始めて、群像新人文学賞をもらったときには第一稿ができていました。登山の〈バリエーションルート〉がモチーフなのは初稿からですが、今とテイストが違って、妻鹿さんはメインじゃなかった。そこから担当編集さんと色々話して掘り下げていって、主人公と妻と子の家庭内の話にして400枚くらい書いてみたり、仕事をもっとメインにしたバージョンで300枚くらい書いてみたり。足掛け3年、ようやくたどり着いたのが今の『バリ山行』です」
よく諦めませんでしたね。松永さんも、編集さんも。
「正直、途中で煮詰まっちゃって、編集さんが産休・育休で交代したタイミングで、ちょっとここから離れてみようかって別の作品も書いたりしたんですけどね。どうしてもこのテーマを離したくなかった。もう一度改稿したのを編集さんに見せたら、これで行きましょう!って。その時には最初の編集さんも育休から戻ってきて、2人体制で最終稿を見てくれたんです」
芥川賞受賞の知らせを受けた時の気持ちは。
「え、もう決まったんですか?って。芥川賞といえば、みんなの期待を受けながらジリジリと待つ、そんな待ち会のイメージがあったので、思ったより早く連絡が来たことに驚いて、心の準備が追い付きませんでした」
受賞会見では、今日も着ていらっしゃるTシャツのロゴ、「オモロイ純文運動」が話題になりました。この運動を始めたきっかけは。
「『カメオ』で受賞したときにホームページを作って、このアイコンをのせたんです。自分の作品にキャッチコピーをつけようと考えて」
ホームページを作ったり、キャッチコピーを考えたりするのも、他の作家さんとは違った発想ですよね。
「僕が読者なら、興味を持った作家さんの情報は知りたいなと思って。試し読みやブログ、プロフィールや掲載情報を載せて、より興味を持ってもらおうと思ったんです。これからも書き続けるために売れたいという気持ちもありますし、単純に、たくさんの人に読んでほしい、という気持ちもあります」
「オモロイ純文」とは何ですか。
「僕の中では、世界、あるいは人間というものを書くのが純文。文学性という核は保持したまま、しかしそれを難解なものにせず、シンプルに面白い、エンターテインメントとして読んでも楽しめるものにしたいんです。わからなさや難解さに価値をおいて、そのほうが高尚だというのは危険。ホームページでは坂口安吾の『通俗と変貌と』の一文を引用しています。『文学は、いくら面白くても構はない。ハラン重畳、手に汗をにぎらせ、溜息をつかせても、結構だ。さういふことによつて文学の本質が変化することはない』、私もその文学の本質の強さを信じています」
自分が書いたものでないと意味がない
松永さんにとって「小説家になる」とは。
「自分の書きたい気持ちに、出版社のシステムが乗っかってくれること。あのまま受賞しなくても、僕はずっと小説を書き続けていました。芥川賞をとっても、また小説を書くだけで、そこに変化はない。ただ、自分がオモロイと思うものを自分の言葉で書くだけ。たまに新人賞の傾向と対策というようなことを言われますが、自分が書きたいことや自分の言葉を変えてはいけないと思います。極端なことを言えば、例えば安部公房の未発表原稿があったとして、名前が空欄になっている。それを新人賞に出せば受賞間違いなし、じゃあそこに自分の名前を書くかって話だと思うんです。やっぱり本当に自分が書きたいもの、自分の言葉で書いたものじゃないと意味がない。それで評価されないなら仕方ないという肚(はら)は括っていました」
今後はどんな小説を書いていきたいですか。
「人間が必死に生きるということを書きたい。僕はニーチェが好きなんですけど、『世界は不条理で、虚無』という前提がある。虚しい徒労であったとしても、そこに抗う人間を書きたい。そして、もしかしたら虚無の先に何かあるのではないかということを小説でやりたいんです。創作だからできること。虚構だからこそできることがある。それは読んだ人がそれぞれに感じ取れる余地でもあると思う」
小説家になりたい人へアドバイスを。
「流行のテーマや、新人賞の傾向や対策などを考えず、本当に自分が書きたいものを自分の言葉で書くことが大切だと思います。
それと、手書きはおすすめです。僕は、いったん手書きでだだーっと書いて、それをパソコンに写しながら推敲しています。手書きで勢い書きすると、文法はむちゃくちゃ、助詞も定まらず、筋も通ってない。半生状態です。だから止まらず進むんです。パソコンで打っちゃうと、まだ頭の中では固まっていないものが、一見きちんとした活字になって出てくるので、いけない。湯豆腐を掬うには箸じゃダメなんですよ。お玉じゃないと」
芥川賞後も「家族が一番」
芥川賞作家となった今、家庭と仕事、小説のバランスをどうとっていきますか?
「家族が一番なので、理解と協力を得ながら、できる範囲で小説をやっていきたいです」
作家さんから「家族が一番」という言葉を聞いたのは初めてです。松永さんにとって、家族と小説の位置関係は。
「小説に限らず、人間は受けたものからしか創造できないと思っているんです。それで言えば、家族から僕は多くのことを受け取っている。小説の原動力だと思います。執筆は一人でしかできない。でもそれって他者がいてこその一人なんです。僕は一人になりたくてよく登山をしますが、それは他者を感じるために一人になりたいのかも知れません」
私にも子どもがいるのですが、ある人から「子どもを産んだ人はいい小説が書けない」と言われて愕然とした経験があります。「そんなことない!」と思っていますが、一方で一人の時間が少ないのは事実です。松永さんは、家族がいることが執筆の弱みになることはありませんか。
「ないですね。子どもの面倒をみるなど、時間が取られるということは当然ありますが、先ほども話した通り、自分の想定外に投げ込まれることは僕の創作にとってすごくプラスなんです。それに、『バリ山行』の主人公の家庭の描写や、会社の人間模様にリアリティを感じてもらえたのも、自分のリアルな体験があったからこそだと思います」
その言葉を、芥川賞作家となった松永さんから聞けてうれしかった。
今回の取材は東京の講談社で行われ、兵庫県在住の松永さんは日帰りで上京。翌日はふつうに出勤するという。帰りの新幹線の時間が気がかりで、質問をひとつし忘れた。「受賞の言葉」にもあった、早くに亡くされたお母さんへの思いを聞きたいと、後日メールすると、「いろいろと書いてみましたが、ノーコメントとさせてください」と丁寧なお返事がきた。
野暮なことを聞いてしまった。
「家族が一番」の芥川賞作家が書くオモロイ純文に、その答えは現れ続けるだろう。
【次回予告】次回は、群像新人文学賞、そして野間文芸新人賞を「月ぬ走いや、馬ぬ走い」(ちちぬはいや、うんまぬはい)で受賞した豊永浩平さんにインタビュー予定。