この夏は、随分といろいろ考えさせられた。
2010年から3年ごとに開催されている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」。4回目となる2019年、国内外から90組以上のアーティストを迎えて、さまざまな展示がなされたわけだが、特にその中の企画展「表現の不自由展・その後」が議論を呼んだ。
元従軍慰安婦を象徴する「平和の少女像」(キム・ソギョン氏、キム・ウンソン氏)や、昭和天皇の写真を使ったコラージュ作品が燃えるシーンを含む映像作品「遠近を抱えて」(大浦信行氏)などの作品に非難が集中。16作家の23作品が展示されていたが、開幕からたった3日で中止となった。県などに、テロ予告や脅迫を含むメールや電話の抗議が殺到したという。
結局、閉幕目前の10月8日、企画展は再開される。河村たかし名古屋市長が再開に抗議して座り込みを行なったり、文化庁が補助事業の申請手続きが不適切だったことなどから7800万円の補助金を全額交付しないことを決めたり、それを受けて愛知県が決定は不当だと不服申し立てをしたりと、本当に目まぐるしい動きがあった。連日のように、テレビや新聞ではあいトリ(略称)の報道があったし、SNS上ではあらゆる人があいトリについて意見をしていた。
たまたま、と言ったら品がないのだけれど、ちょうど8月下旬にプライベートで愛知県へ旅をする機会があり、せっかくなので、あいトリの会場をいくつか巡った。議論の中心だった「表現の不自由展・その後」の会場前には、中止を知らせる看板が寂しく掲げられていて、企画展外でも中止に抗議するいくつかのアーティスト作品が展示を中止もしくは内容を変更していた。
私がアート作品を見るときは、いつも真っさらな気持ちになるというか、作品と自分の感性が真正面からぶつかり合う感じがするというか、静かに、時には激しく、作品と対話するような時間を持つようにしている。正直、作品の真意がイマイチ分からないアート作品もあることにはあるのだけれど、それでも作品と向き合う時間は豊かで、贅沢で、人生にとっては大切な時間だと思っている。
だけれど、このあいトリを訪れた時は、どこか違った。いろいろと前情報を入れすぎたのかもしれない。展示会が圧力で中止になるという事態が自分が思う以上にショッキングだったのかもしれない。まっすぐにアートと向き合うというより、表現の自由とは何か、公と個とは何か、頭の片隅で常に考えていて、いつものように真っさらな気持ちになれず、少し穿った見方をしてしまっている自分がいた。展示されている作品は素晴らしい作品も多かっただけに、心のどこかにしこりのようなものが残った。
あいトリから帰ったあと、そのモヤモヤを少しでも解消したくて、いろいろと自分なりに表現の自由とは何か考えるため、本を読んだ。その中でも、松田修さんとChim↑Pomの卯城竜太さんによる『公の時代―官民による巨大プロジェクトが相次ぎ炎上やポリコレが広がる新時代。社会にアートが拡大するにつれ埋没していく「アーティスト」とその先に消えゆく「個」の居場所を二人の美術家がラディカルに語り合う。』(朝日出版社)が印象的だ。ウェブ版「美術手帖」で2018年12月から19年5月にかけて「The Public Times―公の時代のアーティスト論」というタイトルで連載した対談を新たに更新したものだった。
「他人を傷つけない」アートを並べるだけじゃなくて、「他人を傷つけた歴史」にも目を向けるってことね。そうすれば、アートとしてそのクロニクルを引き受けるってだけじゃなくて、ダークツーリズム的にも学びの場として機能すると思うけどな。(180ページ)
ムズいし、マズいよね。善悪をはらんだ世の中で、そんな善ばかりを見せるような展覧会なんて。さっきも言ったけど、アーティストやアートが世の中のバランス構成的な役割も担っていて、「みんなが喜ぶ」展示があるなら、「みんなが嫌がる」展示もやらなきゃ(笑)(226ページ)
今回のあいちトリエンナーレを受けて、いまようやく日本のアーティストたちが動き出して、さらに連帯し始めたってのがやっぱヤバいしいちばん画期的なことだとは思う。この本が出版されるころにどういう結果になっているのかはわからないけど、どうなろうがこれは「公の時代」のアートの第一歩、歴史的な歩みだよ。(230ページ)
私は再開された「表現の不自由展・その後」は見られずじまいだったけれど、それでも、このあいトリにまつわる言論はきちんと向き合わなければいけないなと思っている。それは自分のためでもあり、これからの日本のためでもある。この本は、そのヒントがたくさんたくさん詰まっていた。