——『ONE PIECE』が始まったのは1997年のことで、江島さんが小学校高学年の頃。連載開始当初から人気が高かったですよね。
僕も開始当初から読んでいて、ウソップが登場したときやサンジの海上レストランなど、麦わらの一味が集まり始めるときはすごくワクワクしました。一番好きなのはアラバスタ編ですね。僕の学生時代は少年漫画が今よりもっと熱い時代でしたから、それこそ、月曜日になると誰かが持ってきた少年ジャンプや少年サンデーを貸し借りして夢中になって読むとか(笑)。『ONE PIECE』のアニメも見ます。
——ジャンプって、大人になった今でも楽しめるのがすごいですよね。『ONE PIECE』は江島さんから見てどんなところが魅力ですか? ジャンプは“友情・努力・勝利”の3大原則というものがありますが。
僕たちって『ドラゴンボール』世代なんです。他に『幽遊白書』もそうですが、初めは弱かった主人公たちが、修行して徐々に強くなっていく。そんな、ある種のスポ根要素が、そうした漫画の源流にあると思います。頑張れば練習しただけ強くなって、強敵が現れてもなんとか努力で打ち負かす主人公たちの姿は、読んでいて燃えます。僕は3歳から水泳をやっているのですが、「サイヤ人になって練習したらもっと泳ぎが早くなるかな?」なんて思ったり。その要素は『ONE PIECE』にもあると思います。あとはキャラも魅力的。ピュアなところはルフィも『ドラゴンボール』の悟空も一緒だし、大食いなところも。
——私も『ドラゴンボール』や『ONE PIECE』がど真ん中の世代なんですが、我々が描くヒーロー像というのはやはり彼らなんですよね。
『ONE PIECE』の主人公・ルフィの有名なセリフで「海賊王に俺はなる!」というのがありますが、これは僕にとってはすごく大切な言葉です。それこそヒーローですよ。物語の最初に、ルフィが樽から飛び出してくるシーンがあります。そのとき出会ったコビーという少年に「どうして海に出たのか」って聞かれたルフィは、「海賊王に俺はなる!」という夢を語るのです。それって僕たちからすれば、なんの根拠も実績もないのに「オリンピックで金メダルを獲る!」みたいな発言ですよね。コビーもやっぱり「絶対に無理だ」って言うのですが、ルフィは「できるかできないじゃない、なりたいからなるんだ!」って切り返す。このシーンは、今でもたまに思い出します。
僕は高校一年生でパラリンピックを目指し始めましたが、そのシーンはちょうどこの頃に見ました。コミックでかな? 普通は何かに挑戦するとき、“できるかできないか”を精査して、諦めるか、目指すかを決めると思うのです。でもルフィは“なりたいからなる”と、ある意味シンプル。当時、僕はパラリンピックを目指すにあたって、近所の公立高校でなく、水泳部がある遠くの私立高校に通学していましたが、結果がちゃんと出るのか、ひょっとして今やってることは無駄じゃないのか、といった不安を抱えて毎日を過ごしていました。でもそのルフィの言葉を目にして、気持ちが晴れました。自分もパラリンピックで金メダルを獲りたいから、自分を信じていくことにしたのです。
「海賊王に俺はなる!」なんて無謀なセリフ、普通だったら恥ずかしいじゃないですか? 案の定、ルフィはいろんな人から無理だって否定されます。それでも彼は恥じることなく、今も海賊王に向かって着実に歩みを進めている。それってシンプルなんですが、すごく考えさせられる。僕が『ONE PIECE』をバイブルだと感じるところですね。
『ドラゴンボール』だと最終的には主人公の孫悟空がやっつけてくれるというイメージがあるのですが、一方のルフィは決してすごく強いわけではない。すぐ泣くし(笑)。それでも、仲間と一緒に立ち向かっていく。そんなところが、これまでの作品とは違う『ONE PIECE』の魅力だと思っています。
——パラリンピックを目指すきっかけは何だったんでしょうか?
僕は3歳から水泳をしていて、当時は普通のスイミングスクールに通っていました。でも13歳のときに突然、プールサイドで倒れました。脳梗塞という病気でした。それから約1年リハビリをしましたが、左半身麻痺の障がいが残り、目標を見失って水泳を諦めました。でも、2000年にテレビでシドニーパラリンピックを見て、自分と同じような障がいを持っている方が、オリンピックと同様に世界で戦う舞台があるのを初めて知りました。「もしかしたら、頑張れば、自分もこの舞台に立てるのか?」と、衝撃を受けたのがきっかけですね。
——高校時代にいろいろな不安を抱えていたというのは「日本代表になれるか?」といったこともあったのでしょうか。
健常者の頃から水泳はやっていたので、どう泳げばいいかは他の人よりも分かっていたと思いますし、その経験がパラ水泳でもアドバンテージになると思っていました。でも実際にやり始めてみると、同じ片麻痺の障がいを持った競技者、つまり目標とする選手がいなかった。練習方法は手探りだったし、自分の立ち位置がよく分からないことで、不安な思いはありました。もちろん、そこにかける時間、かける価値、お金のことも考えました。
——自分の実力を比較する相手が国内にいなかったということですが、アスリート人生において、ルフィが次々と対峙する宿敵のような、ライバル選手とは出会えたんでしょうか。
障がいは違いますが、2002年の世界選手権で出会ったアンドリュー・リンゼイ選手(イギリス)ですね。正直、当時の僕は国内では敵なしでした。
鳴り物入りで乗り込んだ世界選手権に、当時世界ランキング1位だったアンドリュー選手がいたのです。当時の自分は強気で、世界ランキング1位の選手だろうが楽勝だと思っていましたね(笑)。それで、招集場所でアンドリュー選手を見かけて、軽い気持ちで「よろしく」って握手を求めたら鼻で笑われて…。「絶対に水泳で見返してやる」という気持ちで試合に臨みましたが、決勝で10秒以上の差をつけられました。完敗です。そこで初めて世界のレベルを知りました。ある程度の練習だけでも、日本国内でならお山の大将でいられた。でも世界に出てみると、甘くなかった。天狗になっていた自分に、本気でやらないと勝てない世界があることを教えてくれたのがリンゼイ選手でした。ライバルといえば彼を今でも思い浮かべますね。
——その後、アンドリュー選手へのリベンジの機会はあったのでしょうか?
2004年のアテネ大会の決勝で戦うことができました。前半は僕が先行して、アンドリュー選手が焦ってターンをミスするなんてこともありましたが、結局、後半に僕がバテて勝てなかった。でも、当時のニュースで、リンゼイ選手が「日本人の若いやつにしてやられた」と語っていたのを見たので、一矢報いることはできたのかなと。その4年後の北京大会でも対戦して、タイムを0.2秒差まで縮めたのですが、結局負けてしまいました。
――2002年の大会で10秒以上の差をつけられ、そこから2004年のアテネを経て、2008年の北京で0.2秒ですか。最初の対決から見ればかなりの僅差ですよね。
負けは負けなんで(笑)。でも、北京大会の決勝後に忘れられないことがありました。レースで負けたあと、ミックスゾーンに向かってうなだれて歩いていたら、BBC(イギリスの公共放送)のメディアがいて、そこにアンドリュー選手もいました。すると、アンドリュー選手がこっちを見ながら、BBCの人たちを制止したんです。それでアンドリュー選手がじっと見てくるから、「何をされるのかな?」と警戒しました。世界選手権で一悶着ありましたからね(笑)。でもアンドリュー選手は、僕にさっと手を差し伸べてきて一言、「GREAT」って。
2002年に鼻で笑われてから6年ですね。世界チャンピオンに、やっと日本の江島という存在を示せたのかなと。競技を始めた頃はパラリンピックの舞台に立てるかどうかもわからない状態でしたが、ここまできて、パラ水泳をやっていて良かったと思った瞬間でしたね。結局、そのあとアンドリュー選手は引退。2012年のロンドン大会で、アンドリュー選手のベストタイムを上回ることはできたのですが、直接対決で勝つことは叶わずでした。
※江島大佑さんインタビュー後編は12月27日公開予定です。