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ハードル日本記録保持者・為末大さん「ブッダ」から学んだアスリートマインド(前編)

文:加賀直樹、写真:小平尚典

手塚治虫の世界観に衝撃を覚えた

――お好きな漫画作品を3作も挙げてくださった為末さん。まずは手塚治虫の超大作『火の鳥』から。最初に手に取ったのはいつ頃でしたか。

 小学生の時、読書部に属していたんです。週1回、学校の図書室で本を読み、感想文を書いて帰る、というクラブ。そこでこの作品に偶然出会いました。漫画も図書室にあったんですよね。僕、出身が広島なんで、『はだしのゲン』などが並んでいました。ちなみに僕自身も被曝三世です。

――『火の鳥』は過去、未来とを振り子のように行き来しながら、人間の業や生命の本質について強いメッセージが描かれています。為末さんが特に心を奪われたのは、どんな場面でしょうか。

 一番衝撃的だったのは、火の鳥がある罪を犯した人物に、「あなたの顔は永遠にみにくく、子々孫々まで罪の刻印が刻まれるでしょう。あなたの子孫は永遠に宇宙をさまよい、満たされない旅を続けるでしょう」と呪いの言葉をかけるシーン(未来編)。許される、許されないということ自体、恐ろしく思ったんです。「許されない」って凄い言葉。なぜ「許されない」ということが、こんなに怖いんだろう、そう思ったのを強く覚えています。輪廻転生して、くるくる回っていく。それでも許されない……。

 手塚治虫さんの本って、勧善懲悪ではない。何が「悪」で何が「善」か分からない。「死んだらどうなるんだろう」「死ぬって何だろう」と考え続けている頃だったと思うんです。それだけにインパクトがすごく強かった。

――子どもの頃から「死生観」について考え続けていたのですか。

 「善悪がひっくり返る」という体験を、広島ではわりと授業で学ぶ機会が多いんです。教科書ひとつとっても、「戦前はこうでした、戦後はこうでした」。全然違うじゃん! って。原爆を落としたのはアメリカの兵隊でしたけれど、日本の兵隊もアメリカの兵隊も、上官からの命令に従ったまで。やっていることは同じです。そんな不条理について子どもながらに思いを馳せるわけです。「死ぬ」「生きる」、罪が「ある」「ない」とは何だろう。あまり友達と話したことはないのですが、比較的そういうことを考える機会は広島の子の場合多いんじゃないでしょうか。

――その後、成長していくにつて、読み返したりは。

 何度か読んでいます。練習拠点をアメリカにして移り住んだ時、日本語の書籍を求め、サンフランシスコのジャパンタウン(日本人街)で全巻買って読み直しました。

――2作目のお薦めに挙げて下さった『ブッダ』も、そのように読み直したのですか。

 はい。陸上競技の強い国は一神教が多いんですね。アメリカ、ジャマイカ、ヨーロッパ。キリスト教系が多いのですが、それに対して仏教は、……日本の仏教はまた他国とは相当違っているかも知れないですけど、ともあれ、だいぶ雰囲気が異なるんです。「何なんだろうな、この感じ」みたいな。もちろん日本人も、たとえば「神様はいるの?」って聞かれたら、「いる」と答えるとは思うんです。でも、(一神教の国々の彼らは)それとも違う気がするんです。レース前に必ず神様と自分の間の約束について対話している。そんな様子を見ながら、自分はそういった対象物がない、と気づきました。誰かに対し話しかけるということがない。自分しかいない。不思議な気分になりました。

 そこで仏教に興味がわいたんです。そもそも日本人にとって仏教は宗教なのか、ということも含めて。僕自身はむしろ哲学に近いのではないかと思っているのですが、そんなことを競技の時に考えました。仏教に関する漫画ってあんまり多くないんですね。そこで『ブッダ』を手に取りました。ジャパンタウンでも探して読みました。何回か読み直しているんです。

©手塚治虫/潮出版

――手塚治虫の生命観について強く打ち出された『ブッダ』。為末さんはそこから何を読み取りましたか。

 競技の間は「考えて辿り着くこと」と、「考えないこと」との間を行き来します。ハイパフォーマンスができる時って、「考えていない」状況が、だいたい多い。「考える」「考えない」に対しすごく興味を持っています。

 あとは「個人」についての東洋と西洋の考え方の相違。西洋的にいえばたぶん「全体主義」という考え方って、非常に、恐ろしいアイディア。ナチスドイツなどが思い浮かびます。いっぽうで、東洋的に言うとすると、既に「全体主義」的で、自分という者は集団のために多少身を犠牲にするものだ、という感覚が、何となくある。それがいき過ぎると本当の「全体主義」になっちゃうんですけど。とはいえ社会全体で「全体主義」的な空気がずっと流れている。

 しかも、日本の「全体主義」って、その中心にズームして見ると空気しかなかった、って言う「全体主義」じゃないですか。西洋のように「統括者」がいて、「この人が言うことを皆が身を犠牲にしてやる」という「全体主義」ではない。

 空気的に自分の身を捧げ、全体のために何かしないといけないんじゃないか、っていう。この概念自体の説明がすごく難しいのですが、そんなことを感じていたと思います。

――「忖度」「空気を読む」という話にも通じますね。
 はい、はい、はい。

――周囲の空気を読み合い、そんなにタガが外れた場所にいかないように、っていう。

 競技の場面において、それは強みになる時と、弱点になる時があります。特に弱さが陸上の場合、強調される。「ひとを押しのけてでも、自分さえ良ければ良い」っていうアイディアを持ちにくいんですね。それは別に「良い人だから」というのではなく、ホントに心理的に持ちにくい。いっぽうで、突き抜けちゃうと社会のためになったりする。天才というのは、周りの言うことを聞かないで、一通り突き抜けないと分からない世界。他人の言うことを聞かない、気にしない。

 日本は「同調圧力」みたいなもののせいで突き抜けにくい。それが問題だと思います。いっぽうで、社会秩序の面で言えば、日本では何となく協調して動いていて、はみ出ないから予測がしやすい。突飛な行動を取らない。ヨーロッパに行くと、ちゃんとルールをつくっておかないと、「本当にこんなことをやってしまう奴がいるの?」ということが実際に起きる。どっちが良いんだろう、と悩みます。源泉を辿っていくと、日本のこういう特徴って仏教的なものから来ているのかな、などと考えていたのだと思います。

――「天才」は何とかと紙一重。

 他人に共感しないで突き抜けられる、ということですよね。アスリートだって、何万人が見ているなかで、皆の期待を一身に受け、これから始めるプレーについてまったく乱れないというのは、共感力が低くないと難しい。我々の世界で「共感が低い」というのは勝負強いという誉め言葉です。プレッシャーの正体って、「他人からどう思われるか」。周囲の気持ちを考えて失敗するとか、そういうことはいっぱい現場で考えてしまいます。

――「失敗しないようにしないと」「支持されないと」と思う状態って、コストパフォーマンス的に低い。
 そうなんですよ。だから、「皆を喜ばせる」ために、「皆を喜ばせようと思うこと」を捨てる。すごく矛盾した世界に追い込むんです。他人の期待に応えないように生きるのが、最も他人の期待に応えることである、ということがあり得る。だけど、自分の心はどう扱ったら良いんだろう。そういう感じです。

――その葛藤は、わりと早い段階から?
 あったと思いますね。小学校、中学校ぐらいの時から。それなりにカンの良い子だったとは思うんですけど、人間の心とか、切なさとか、自分が何でこういう時に失敗するんだろうとか、そういうことを比較的考えていた子どもだったと思います。

 僕の場合、すごく内向的な人間がスポーツの世界に放り込まれた、というのが自分の人生の特徴だと思っているんです。足がたまたま速かったんでスポーツに来ました。陸上に来たのも思い込みが強いから。だけどすごく失敗した。自分を客観的に見ないと暴走する。何かにガーッとのめり込むオタク気質。これでいっぱい失敗したんです。恋愛の時には暴走しました。その最中には客観的にならないんだけど、終わってみて、なんであんなことをしたんだろう、とか、なんで冷静になれなかったんだろう、ってあとから考えるんです。

大切なのはシリアスな局面を面白がれること

――そして、3つ目に推薦して下さった『お父さんは心配症』。他の2作とはだいぶ印象の異なる作品ですよね。少女漫画誌「りぼん」の連載で、80年代前半に刊行されました。

 僕が小学校に通っていた頃は、男の子は「少年ジャンプ」「少年マガジン」「少年サンデー」。女の子は「りぼん」「なかよし」「マーガレット」が主流でした。僕はロボットが好きだったので、お小遣いをプラモデルのロボットに使っちゃうんです。そうすると、家にある漫画といえばお姉ちゃんの「なかよし」か、妹の「りぼん」。お姉ちゃんと妹の本を読むしかないんで、そのなかにあったのが『お父さんは心配症』。覚えている漫画といえばそれかな、と(笑)。

――数多くある漫画作品のなかから、この作品がノミネートされた理由とは?

 いや、なんか単純に面白かったから(笑)。「人は、いつ、自分の姿が見えなくなるんだろう」ということに対しては、子どもの時から興味があったんです。というのも、周囲に宗教法人の施設があって、そこの信者さんは道ゆく人々に、宗教について説明をして回っていたんです。子ども心ながらに、「この人の姿はちょっと異様だ」と思っていました。バス停でずっと待っていて、来る人来る人に対して話していました。宗教を信じること自体は別に良いのですが、ただ、「自分自身の生活を全部投げ出してまでというのは、バランスを崩している」と思ったんですね。自分の身があまりにも犠牲にされているように見えたんです。

 僕らの世界も途中でボディビルダーみたいな世界に入って、ガーッといく。いつ、ひとはいき過ぎるんだろう。さきほどの話と矛盾するようですけれど、ひとって、あるところでガーッといき過ぎていくけれど、そのことに本人だけが気づいていない。「ひとの心がいつ暴走していくのか」「当たり前って何なのか」。それを考えさせられました。

――自分自身の姿が見えなくなる瞬間ですね。このお父さん、ヤバいですもんね。

 この作品はユーモアがあるから良いんですけど、お父さん。自分の姿が見えていない。

――娘さんも、娘さんの彼氏もまともなのに。
 ひとりで妄想に走っていく。でも多いんですね、スポーツの世界はこういうパターン。そういうのは何かしらある。

――為末さんご自身も4歳児の父親。将来「こんなふうにならないようにしよう」とかは……。
 さすがにまだ、あんまり。だけど、「何でも面白くすれば結構OK」みたいなところがあるじゃないですか。シリアスな局面でも、うまく面白がれるようにするというのは大事だなと思いますね。モノの捉え方として。

 ※為末大さんインタビュー後編は1月31日公開予定です。