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やさしい世界 柴崎友香

 スマートフォンのアプリで自分にとって最大の発明は、流れている曲を聴かせると誰のなんという歌か教えてくれるものだ。ある日、それで調べた歌を友人に送ったつもりが、別の人に送信してしまった。
 相手は、四年前にアメリカの大学のプログラムでいっしょだったインドネシアの小説家で、いいね、と返信が来て、わたしは慌てて、ごめん、間違えた、と返した。

 そうしたら、ごめんでも間違いでもないよ、だって何年か前にこの歌を初めて聞いたとき、ぼくもすごくいい歌だなって思ったから、と返ってきた。なんてやさしいんだろう、と泣きそうになってしまったのは、このところの身の回りの余裕のなさに疲れていたからかもしれない。

 そして、三年前に行ったロサンゼルスの博物館でのできごとも思い出した。売店でジュースを買ったわたしは、間違えてその直前に訪れたイギリスのポンド紙幣を渡していた。レジの黒人のおねえさんは、それをじっと見て、これ、どこのお金? と聞いた。慌てて、あっ、ごめんなさい、と言ったら、うしろに並んでいた白人のおばあさんが、あら、イギリスに旅行してきたの? わたしは住んでたことあるの、いいところよね、と話しかけてきた。レジのおねえさんも、きれいなデザインね、とほほえんでいた。

 そのとき、間違えたから早くしなくては、うしろの人に迷惑がかかる、とばかり焦っていた自分が、少し恥ずかしいような気持ちになり、彼女たちのけっして特別になにかしている様子ではない、ごく当たり前になごやかな会話をしていることが、あまりにありがたくてうれしかった。

 日々の生活の中で、ありがとうよりも、つい、すみませんばかり言ってしまい、小さな失敗でも周りに迷惑なんじゃないか、苛(いら)つかせているんじゃないか、と気になってしまう。だけど、こんなふうな答えが返ってきたら、その体験を自分も返していけたら、世界はもっとやさしい場所なのだと思える。=朝日新聞2020年4月8日掲載