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【追悼】古井由吉さん 想起せよ粘り強く、文の極致を 作家・佐伯一麦さん寄稿

『やすらい花』の取材に答える古井由吉さん=2010年撮影

 さる2月18日に逝去した古井由吉氏は、小説のみならず、ムージルやブロッホの翻訳、リルケの訳詩、折々の随想にいたるまで、日本語表現の極致を示し続けた文の人だった。最後まで現役の作家であり続けた文業と人の魅力を限られた紙面で語ることは至難だが、まず、活字でしか接してこなかった読者には、インターネット上でも視聴できる講演やインタビューなど、生前の古井氏の肉声に触れることを奨(すす)めたい。

 独特の間合いを持った低く穏やかな声音で、粘り強くも淡々と言葉が継がれていく口調は、お寺の講話の趣でありながら、落語の燥(はしゃ)ぎも併せ持っていた。矛盾を踏まえざるを得ない事柄を情理を尽くして語る、その音韻を押さえておくことは、2011年作の『蜩(ひぐらし)の声』(講談社文芸文庫・1705円)など、老境に深く分け入ってからの諸作を味わう手掛かりとなるにちがいない。

俗と渡り合う

 対談・座談の名手でもあった。特に、1975年の吉行淳之介との「拒絶反応について」と題された対談は、「第三の新人」の文学の特徴が、俗に対する拒絶反応の精神にあり、それが表現を研ぎ澄ませる半面、文学の可能性を痩せ細らせることもある、という根底的な批判を新世代側から提示したエポックメーキングなものだった。「内向の世代」という呼称とは裏腹に、古井氏の文学は世間や他者を拒絶するものではなく、俗と渡り合う精神性を持っていた。

 初期の代表作『杳子・妻隠』が併称されるのには理由がある。70年下半期の芥川賞では二作同時に候補となり、「当選作なし」を主張した石川達三をのぞいた選考委員全員が古井氏を推し、意見が分かれたのはどちらを当選作にするかということだった。ご自身では「杳子」のほうをひそかに応援しており、ぎりぎりのところでこちらに賞が決まったときは、ほっとしたという。杳子という“病者の光学”をとおして、健康だと思っている者の日常生活がいかに欺瞞(ぎまん)的で物狂わしいかを鮮烈に描いて見せた作だが、主人公はヒロインではなく、献身的に寄り添う騎士的な「彼」だと私は読む。その古くて新しい特異な恋愛の様相が、現在でも多くの読者を惹(ひ)き付ける理由だろう。

エッセイズムへ

 中年の物語として、狂気と正常の境界のせめぎ合いを静かな筆致で書いた83年作の『槿(あさがお)』(講談社文芸文庫・1870円)は、「杳子」以来のテーマの集大成といえる長篇(ちょうへん)小説だが、それ以降古井氏は、小説らしい小説には背を向けて、本来「試みる」の意である「エッセイ」的な小説を書き続けることとなる。嚆矢(こうし)となったのが、『槿』と同時に並行して連載していた『山躁賦』で、翻訳で培われたとおぼしい最初期の作品からも窺(うかが)われた古井氏生得のエッセイズムが遺憾なく発揮され、土地にまつわる過去が濃密な関西の山々を歩く「私」に、芭蕉や連歌、中世の俗謡、軍記などの言葉が「非我の私」として雪崩(なだ)れ込む様には圧倒される。

 古来、この世に厄災はつきものであり、それを経て生き延びる人の心といとなみを、幼少期に空襲を体験した古井氏はずっと描いてきた。中でも、天変地異と悪疫の大流行が作中で語られる92年作の『楽天記』は、作者自身も頸椎(けいつい)を患い中断を挟んで完結されたこともあって、楽天というものの際どさが表現されており、新たな恐怖に取り囲まれている現在、祈りの書のように読めるところがある。

 古井氏は、中上健次が亡くなった後に大江健三郎氏と行った対談で、小説家の死を、折れるように悲しむのではなく、粘り強く悲しみ続けるべき、と述べておられた。雨が降る、やむ。風が吹く、やむ。月が現れ、隠れる。そうした天象にふれるたびに、千年来の日本文学の辻に居続けた古井由吉の文学が想起され続けることだろう。=朝日新聞2020年4月11日掲載