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諦めずに手を洗う 津村記久子

 ハッピーバースデーの歌を二周するぐらいの間手を洗うと良い、という話が好きで、わたしも歌いながら洗っている。二回で約三十秒とのことだ。最初は「ハッピーバースデー誰々~」の「誰々~」の部分を「ふふふふーん」みたいに歌っていたが、最近はもう「きくこちゃ~ん」と歌っている。おお記久子って誰。自分か。「津村さん」とか「つむ」としか呼ばれないから違和感がすごい。気持ち悪いけど新鮮だ。

 「きくこちゃ~ん」もだんだん飽きてきたので、普通に音楽を聴きながら手を洗うこともある。わたしは本当に気が散りやすいのだが、音楽を聴きながらだとおとなしく手を洗っている。今の人の曲をほとんど知らない中年なので、ニルヴァーナの〈スメルズ・ライク・ティーンスピリット〉を例に出すと、ギターソロが始まって少しの所でだいたい三分なので、そこまで洗えば相当洗えているということになると思う。親指全体と指先に特に汚れが残っているそうなので、一番を聴きながら全体を洗い、二番でそれぞれの指の部分洗いに徹するとか、一度すすいでから二回洗うのも良いかもしれない。というかイントロだけですでに三十秒越えているので、歌に入るまでに手洗いは終わっていていいんだろうけれども、せっかくだしギターソロまでは洗いたい。一番終了で一分四十秒、二番終了で二分五十四秒だ。いい曲なのでいくらでも洗える。ちなみに「ティーンスピリット」とは「十代の魂」ではなく、そういう名前の制汗剤のことだそうだ。カート・コバーンの伝記で読んだ。

 音楽には雑念をおとなしくさせ、飽きそうなことでも続けさせる力があるのではないかと思う。皿洗いとか資源ゴミをまとめるとか、気の重い作業はたまに音楽を聴きながらやっていたのだが、それがこんな形で世の中とリンクするとは思っていなかった。是非お好きな手洗い用の曲を見つけてください。絶対楽しいから。それで自棄(やけ)にならないでください。負けるな。=朝日新聞2020年4月15日掲載