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百で数える按配 津村記久子

 数字には本当に弱いのだけれども、自分は数えるという行為はわりと好きなのだな、と最近考えるようになった。

 米を研ぐ時にも数えている。米を炊くと、これから食べるものがある、と安心するし、適当なおかずを作ってもそれなりに一食になるため、生活に欠かせないことだとは思うのだが、米を研ぐのがあまり好きじゃない。かといってケチで無洗米を買う方向には踏み切れないため、いつもいやいや米を洗っていた。何がいやって、どれだけ研いだらいいのかよくわからないからだ。水の濁りが少なくなるまで、というのはなんとなくわかるのだが、いつまでも濁っているような気がする。完全に透明にならなくても炊いていい、というのはわかる。でも「ちょっと濁ってていい」の按配(あんばい)がよくわからないことに苦しむ。

 苦悩の末、大好きなキッチンタイマーを出してきて、一分研ぐごとに水を取り替える、それを五分(回)繰り返す、という方法に切り替えて、悪くはなかったのだが、最近は「研ぎながら百数えて三回水を取り替える」という方法にシフトした。タイマーにしろ百数えるにしろ、具体的な数字と作業の終わりが見えるようになってから、米を研ぐ曖昧(あいまい)な苦痛からは解放された。

 頭にドライヤーをかける時も百数えるようになった。あれも按配がよくわからなかった。一回を前後の一往復として、今は右側を百回、左側を百回、また右側を五十回、左側を五十回、と数えながらかけている。

 風呂に入って百数える、という知恵は伊達ではないと思うようになった。わたしは落ち着きがないのだけれども、落ち着きのない人はもしかしたら「曖昧さに耐えられない」という理由で落ち着かなくなっているのかもしれない。数を示すと、現在の数字と照合して自然と進捗(しんちょく)が見えてくる。そのことで落ち着く。「適当にやってよ」という言葉で苦しんでいる誰かがいたら、具体的な数字の枠を示してあげてください。=朝日新聞2020年6月24日掲載