十代後半、現代詩をたくさん読んだ。特に実験的で苛烈(かれつ)な詩人たちが好きだった。吉岡実、天沢退二郎、堀川正美、岩成達也など、そのころ繰り返し開いた現代詩文庫のことを思い出しただけでも心が沸き立ってくる。その少しあとでドゥルーズや宮川淳、中上健次などが頭の中に押し寄せてくるのだが、その受容の下地には現代詩があった。おそらく同世代の多くが同じ経験を共有しているはずだ。
最初に出会った現代詩は黒田喜夫である。その詩を読んだとき「ことば」というものに直撃されたと感じた。
東北の貧しい村に生まれた黒田は、「飢餓」を基底にすえ、その身体から「革命」を問い続けた詩人である。しかしその「革命」には希望やユートピアの明るさはない。
「毒虫飼育」という詩がある。母がある日、四畳半の部屋で蚕を飼い始める。蚕は繁殖し、ついには母を食い尽くす。「おかあさん革命は遠く去りました/革命は遠い沙漠の国だけです」。あるいは「除名」という詩。入院中の詩人のもとへ革命の夢を託した党からの除名通知が届く。詩人は思う。革命からの除名などできない、なぜなら「階級の底はふかく死者の民衆は数えきれない」からだ。
黒田はこの底辺へのまなざしを徹底させて、最後にはこの列島そのものを詩において解体しようとしていた。その詩と思考はいまだにおそるべき力を秘めている。永山則夫のような存在に導かれたのも黒田を読んだことと無縁ではない、といま改めて思う。=朝日新聞2020年7月15日掲載