食文化の区分は必ずしも国家ではなく、地域
――『世界の郷土料理事典』は青木さんが主宰する「e-food.jp」の20周年記念として刊行されたそうですね。まず「e-food.jp」の成り立ちから教えてください。
「e-food.jp」を始めたのは2000年3月です。その頃はまだツイッターやフェイスブックもなかった時代でした。当時、私は会社員。自分のホームページを作り、趣味の旅や食べ歩きの話を書いたら、いろんな方が情報を送ってくれるようになったんです。レストランの情報サイトも今ほどたくさんありませんでしたから、食べ歩き情報やレシピなどを共有するサイトを作ろうと思ったのが「e-food.jp」の始まりでした。
当時はウェブを通じてコミュニケーションするのは目新しいことでした。会ったことのない方とネット上でやり取りするうちに趣味が合うのが分かり、似ている趣味を持つ人たちが集まるようになった。そんな風にして小さなコミュニティができていくのが面白かったんですね。
――今の「e-food.jp」は食べ歩きの情報よりも、料理のレシピが多い印象です。現在のスタイルになったのはいつ頃ですか?
2007年頃から徐々に変わっていったと思います。今のようにたくさんレシピをのせるようになったのは2010年頃かな。まだクックパッドも今ほどはポピュラーではありませんでした。レシピは直接、外国の方に習ったり、現地の料理教室に行ったり。ウェブに載せるといろんな反応があるので改良もできるし、こんなレシピもあるよ、と教えてくれる人もいるので、公開するようになったんです。
今、サイトに掲載しているレシピの数は208。なぜ208かというと、今、国連加盟国は193カ国。IOC(国際オリンピック委員会)加盟国が206カ国。日本が国家として承認しているバチカン市国とニウエの2カ国を加えて208カ国(2020年7月現在)という内訳です。
――書籍ではレシピの数が300と大幅に増えていますね。
はい。本の序文にも書きましたが、国家という分類はあくまで政治的な区分であって、食文化とは必ずしも一致しない。そのことはウェブを運営していくうちに実感するようになっていました。書籍化にあたって数を増やせるというので、「これはチャンスだ。今まで入れたくても入れられなかったレシピも入れよう」と思ったんです。また、ウェブで紹介した国でも料理を入れ替えたところもあります。
――具体的にどういった地域が増えていますか?
新たに増やしたのはイギリス、イタリア、フランスなど。日本も増やしました。イタリアならミラノがあるロンバルディア州やローマのあるラツィオ州、フランスはブルゴーニュ地方、ブルターニュ地方といった主要地域。カリブ海のマルティニークのような海外県もなるべく入れるようにしました。
イギリスのスコットランドやスペインのカタルーニャなどは、常に独立問題が浮上していますが、そういう場所はやはり文化が違うんです。「私たちはスペインだけど、カタルーニャでもある」みたいな。そうした地域は食文化も独自性があるので、書籍では個々に紹介したいと思いました。本当はもっともっと入れたかったんですけれど。
レシピはそれぞれの食文化に敬意を払いながらアレンジ
――レシピだけでなく、調理も写真撮影も青木さん自身によるものですよね。
はい。だから最初の頃の写真は本当にひどくて(笑)……書籍では新しく撮り直したものもあります。
――レシピはどうやって集めたのでしょうか?
いきなり現地へ行っても言葉も通じないですから、まず下調べから始めます。たとえば東京だと、高田馬場にはミャンマーの人たちのコミュニティがあり、レストランもたくさんある。そういう場所へ行き、まずは日本語が通じる人たちにいろいろ聞くんです。
こうした下調べを重ねた上で海外へ行くと、理解度が違います。言葉ができなくても、分かることが多くなる。これから世界の食文化を勉強したいという人も、海外へ行かないとできないわけではなくて、やろうと思えば、日本でもある程度調べることはできますよ。
――海外のレシピは材料が手に入らないなど、日本で再現するのが難しいところがありますが、どうやって解決されましたか?
実は、材料が入手できないだけでなく、現地の味をそのまま再現すると日本人の味覚に合わないことがあるので、海外のレシピをそのまま使うことはあんまりないんです。たとえば日本のタイ料理を食べた時、タイの人は「塩と辛さが足りない。味気ない」と言っても、私たちにはちょうどいい味だったりする。だから試作で味を確かめながらレシピを書いています。気をつけているのは、アレンジしすぎないこと。それぞれの地域の食文化に敬意を持っているので、まずは食材そのものの味を大切にし、調整するのは主に、手に入らない食材の代用案と、塩、油、唐辛子など辛味の量を控え目にするくらいです。
私は大使館で料理を作ることがあるのですが、塩、油、辛味を現地の味に近づけると、「あ、辛い。これは私、駄目だわ」とおっしゃる方もいる。そう思われてしまうと、そこでその国との関わりが遠のいてしまう。だから味つけに関しては注意して控えめにし、塩やとうがらしをテーブルに置いて、お客様が好みで足せるようにすることもありますね。一方、最近は世界的な健康志向により、現地レシピも油や塩を減らす傾向にあります。
代用については、何をどう代用したかを書いてくれているのが良い、と読者の方に評価をいただきましたが、この本は私の備忘録でもあるので、自分が使う時の事を考えると書いてあった方がいいなと思って。
――これはうまく代用できたな、と思う食材はありますか?
インドネシアの肉の煮込みでルンダンという、最近ちょっと流行っている料理があります。インドネシアならルンダン・ペーストがどこでも買えるのですが、日本では少し入手が難しい。そこでペーストに使われているスパイスを調べたら、タイのレッドカレーペーストによく似ているのに気づいて。これにクローブを入れれば代用できるのでは? とやってみたらうまくいきました。こういうひらめきが上手くいった時は嬉しいですね。ちょっと発明家の気分です。
――レシピが決まるまで、苦労した料理はありますか?
複雑な料理よりもシンプルな料理の方が難しかったですね。たとえばラオスの「ラープ(ひき肉の料理)」。加えるもち米の量など、なかなか決まらなくて、ずいぶん作り直しました。
私は凝り性なので、食器や小道具にもついこだわってしまって。なるべくその国のものを使うようにしています。料理にさしてある各国の国旗も手作り。料理だけではどこの国の料理か分からないかな、と思い作り始めました。ラープでも、もち米を入れた籠はわざわざビエンチャンで買ったものです。
――青木さんご自身が好きな料理を教えてください。
たくさんありますが、たとえばトルコのラフマジュン。ピザの一種みたいなもので、市販のピザ生地を使ってもいいし、羊肉もジンギスカン用の肉を包丁で細かく切れば使えます。
インドのパラク・パニール(ほうれん草とチーズのカレー)も大好き。レストランで食べると油が多すぎると思い、もともと自分のために考えたレシピです。パニール(チーズ)はカッテージチーズと同じように、牛乳と酢だけで作れます。お菓子にも使えるし冷凍もできる。新型コロナウィルスの拡大が始まった頃、牛乳が余っているからたくさん使おう、という呼びかけがありましたよね。あの時、字数制限が無いというウェブの強みを生かして「e-food.jp」で、パニールの作り方を写真もたくさん入れて詳しく紹介したんです。そうしたら随分話題になり、嬉しかったですね。
コミュニケーションが生まれる本にしたかった
――今も海外へ行けない状況ですが、『世界の郷土料理事典』を読むと海外気分が楽しめるという読者の声も多いそうですね。
実はこの本は当初、「e-food.jp」の創設20周年記念と同時にオリンピック開催を見越して考えた企画でした。コロナのことはまったく想定していなかったので、「家にいても外国気分が味わえる」と言っていただけるのは、本当に予想外でした。
この本はレシピ集というだけではなく、その国の人にこの本を見せて「これ、あなたの国の料理ね」というふうに、コミュニケーションが生まれるような本にしたかった。そのための工夫として、料理名を現地の言葉で表記しました。日本人が見ると飾りにしか見えないかも知れませんが、その国の人は必ずチェックしますからね。間違いのないよう、何度も確認しました。
――宗教や国際儀礼についても、しっかりページを割いていらっしゃいますね。
宗教は郷土料理を語る時に欠かすことのできない要素なので、海外の聖職者に取材するなど、かなり詳しく調べました。たとえばパキスタンやマレーシア、インドネシアは同じイスラム教徒の多い国同士ということで交流がある。それは文化にも、もちろん食文化にも影響を与えています。
パーティなどで他国の方々とお会いした時、相手の文化を尊重する、国の大小に関わらず平等に扱うという国際儀礼の理念は、基本的だけれど忘れがちなことでもあるので、ちゃんと書いておきたかったんです。私は若い頃、旅先のユースホステルなどで、いろんな国の旅行者と話すうちに仲良くなったりしたものです。そうした経験を通して、相手の文化を尊重するのは大切なことと肌で感じたんだと思います。
そして、小泉八雲の影響もあるかもしれませんね。私は若い頃から八雲が好きで、随筆などもずいぶん読みました。彼はイギリス系アイルランド人の父と、アラブ系ギリシャ人の母を持つ人で、「どんな人種であっても、人間の本質は同じである」という考えを持っていたんです。
自分の国の文化を大切にすることも大事だし、同様に、相手の文化を尊重することも大事。『世界の郷土料理事典』はレシピ集というだけでなく、国際交流やビジネス外交のツールとしても役立つように作りたかった。音楽やアートと同じように料理も、互いの言葉が通じなくてもわかり合える。とても良いコミュニケーションツールだなあと思っています。