ニュージーランドでは全国的なロックダウン解除後、102日間にわたって新型コロナウイルスの国内感染が見られなかったが、8月にオークランドで新たに国内感染例が確認されると、ただちに政府はオークランド全域をロックダウン状態にした。そのほかの地域でも、公共施設に入る際は携帯電話のアプリでその施設固有のコードを読み込むようよびかけるなどして、感染経路の特定に必要なデータを政府が収集している。
ニュージーランドのコロナ危機対策は、その迅速さが世界的に注目を集めているが、その一方で無視しえないのは、行動の自由を大きく制限するような政策は、人々の積極的な協力なしにはありえないことである。事実、ジャシンダ・アーダーン首相は「五百万人のチーム」、つまり国内のすべての人々のチームワークをことあるごとに称賛している。
しかし、なぜニュージーランド人はロックダウンをすんなり受け入れたのだろうか。実際、アメリカをはじめとする諸国では、移動の自由の制限に対する抵抗が激しい。ニュージーランドでのスムーズなロックダウンは世界的に見れば例外的とさえ言える。
政治文化の特質
アメリカの歴史家デイヴィッド・ハケット・フィッシャーは『公正と自由』(オックスフォード大学出版局・未邦訳)で、アメリカの政治文化の究極的価値は「自由」だが、ニュージーランドのそれは「公正」だと述べている。アメリカ人の場合、個人的な「自由」が何よりも優先されるが、ニュージーランド人の場合、ロックダウンに即して言えば、人命の安全を確保する点ですべての人々が「公正」に扱われるためには、若干の「自由」の制限もやむをえないと考えるわけである。
このように「公正」を最重視するニュージーランドの政治文化は、世界史上初めて女性参政権を認め、社会保障制度を世界に先駆けて充実させた実績を持つ。『「小さな大国」ニュージーランドの教えるもの』は、19世紀末から20世紀初期に活躍した安部磯雄や片山潜がニュージーランドを「理想郷」だと論じたことを紹介しているが、彼らのような近代日本を代表する社会主義者たちはいち早くニュージーランドの政治文化の性格を見抜いていた。ロックダウンのような非常事態が、各国の政治文化の特徴を浮き彫りにするとすれば、翻って、現下のコロナ危機において明らかになりつつあるはずの日本の政治文化の特質とは何だろうか。
国が移動を管理
ロックダウンは、ニュージーランドの政治文化の独自性をあらわにした一方で、近代国家に関して見過ごされがちな一般的特徴をも明らかにした。それは近代国家が、人やものの移動を独占的に管理する制度だということである。
アメリカの社会学者ジョン・トーピーが『パスポートの発明』で論じたように、人やものがグローバルに移動する時代が到来したのは第1次世界大戦の頃だったが、外国に行く際、パスポートの携帯が義務づけられたのもそれと同時期だった。つまり国境を越える移動の急激な増大は国家が管理することで初めて実現したのである。
17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』において「自由」を「外的な拘束の欠如」と定義した。移動の自由は、国家が管理するが通行の邪魔をしない限りにおいて成立するにすぎないという点で、まさにホッブズ的な意味の消極的自由である。ロックダウンや国境封鎖という現実は、近代国家という「怪物(リヴァイアサン)」が歴史的役割を終え、ボーダーレスな世界が到来するという主張が幻想だったことを見せつけている。=朝日新聞2020年9月12日掲載