新しい登山 山頂が目標ではない多様な幸福 佐々木俊尚
登山は多様だ。困難に挑戦し、冬山や岩壁を目指す人もいれば、近所の低山を楽しむ人もいる。加えて近年は、さらにさまざまなスタイルが登場してきた。山道を走るトレイルラン、軽快な装備で速く歩くファストハイク。登山道や遊歩道、舗装道をつないで長距離を歩くロングトレイル。東北地方の太平洋岸を歩く「みちのく潮風トレイル」は青森県から福島県まで全長は千キロを超え、すべて歩けば2カ月以上との声も聞く。私も数年前、このトレイルの一部を歩いた。山道に沿って眼前に広がる大海原、リアス海岸の複雑な景観、懐の深い山里が次々と立ち現れる。「どこまでも歩き続けたい」と高揚してくる。さらにはこの道が東日本大震災の被災地に重なっているという事実に思いを馳(は)せ、静かに沈殿する感動を与えてくれた。
このような新しい登山スタイルに共通するのは、ひたすら脚を運んでいくことが主眼であり、山頂は単なる通過点でしかないという感覚だ。
そもそもわれわれ人間にとって「歩く」行為は何を意味しているのか。それを考察するうってつけの本が、レベッカ・ソルニットの『ウォークス 歩くことの精神史』(東辻賢治郎訳、左右社・4950円)。登山にかぎらず散歩や通勤手段としての徒歩にまで射程を伸ばし、膨大な引用とともに縦横に論じている。治安が悪かった中世欧州で街道を歩くことは危険で、富裕層は馬や馬車を利用した。歩いているのは貧しい人か素性の怪しい者だとされたという。近代になり治安が改善されて歩くことの楽しみが発見され、散歩の文化も生んだ。歩く行為が労働から快楽に変わったのである。庭園も眺めるだけでなく、歩いて自然に没入できるような構成に変わった。
しかし20世紀に入ると、モータリゼーションによって人々は歩くことから疎外されていく。環境が良く広い住まいを求めて人々は郊外に住み、マイカーで通勤するようになったからだ。日本でも多くの地方都市から商店街が姿を消し、賑(にぎ)わいは国道沿いのショッピングモールに移り、街を歩く人は減った。しかしソルニットが「歩くことは、人類の文化という星空に輝くひとつの星座」と書くように、歩く行為は人間の本質のひとつである。AIのような人間を凌駕(りょうが)しそうな知性が進化してきた現代だからこそ、人間の身体の感覚がいま見直されようとしているのではないか。さまざまな登山スタイルの登場は、この潮流の中にあると感じている。
背負う荷物を極限にまで軽くする登山というスタイルがある。土屋智哉『ウルトラライトハイキング』(ヤマケイ文庫・880円)は、そのバイブル的な書籍だ。重荷を削(そ)ぎ落とせば、自然をダイレクトに感じることができるという哲学である。
実のところ自然への没入感覚は、江戸期の『おくのほそ道』などに象徴されるように日本の伝統でもある。昭和なかばに多くの山岳エッセイを書いた哲学者で詩人の串田孫一。原著の刊行は1957年の『新選 山のパンセ』(岩波文庫・968円)には、自然の中に自分がただいるということのあふれる喜びが、簡潔で美しい文章によって描かれている。
「たやすく辿(たど)りつけた広い峠では、私は立ったまま風に吹かれてその僅(わず)かな高さに満足するだろう。長いあいだの汗と鼓動のあとで辿りつけた峠では、荷を下ろし、水筒の水を口にふくみ、膝(ひざ)をかかえて天の近さを感じよう」
近代の成長の時代が終わり、21世紀には「明日の希望」よりも「いまこの現在の幸せ」をかみしめるという価値観が広がっている。そういう時代だからこそ、高みを目指すのではなく、ただ山を歩き自然に没入するという行為に私たちは惹(ひ)かれるようになっているのかもしれない。=朝日新聞2025年7月26日掲載