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「アイヌを知る」とは、本でひもとく 文化担う人々への抑圧も見よ 北原モコットゥナシさん

「ウポポイ」がオープンし、国立アイヌ民族博物館で鑑賞する来場者=7月12日、北海道白老町

 アイヌ施策推進法はアイヌの誇りの尊重を掲げる。その誇りは、どのように損なわれ、どう回復できるのか。抑圧が常態化した状況では、加害者も被害者も俯瞰(ふかん)的な視点を持ち難い。

 阿寒湖畔アイヌコタン出身の瀧口夕美は、そうした経験を『民族衣装を着なかったアイヌ』に率直に書いている。「アイヌとは?」「あなたはアイヌ?」という気軽な問いは厄介だ。そうだと言えば「では純粋か?」と言葉が続く。反対に「純粋な和人とは」と問われたら答えられるのだろうか。こうした問いを一方的に向けること自体、対等な関係ではない。

 「アイヌらしさ」とは、例えば容姿と生活習慣、血縁などか。だが、容姿も生活習慣も世代を経れば変化することがある。血縁やアイデンティティーは有(あ)っても見えない。すると「いる」と気づかれず、言っても本気にされないこともある。アイヌの認知度が低い土地で育ち、言語も知らなければ、周囲との違いを説明するのは難しい。言えば拒絶や好奇心の対象となる。

 この点は、在日コリアンや、セクシュアルマイノリティーの経験と共通する。ゲイ視点で描いた飯塚モスオの4コマ漫画『モスコミ』(キンドル版・各巻600円)は、こうしたマジョリティーには体感しづらい経験を見事に描く。石純姫の『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』では、両者がともに植民地主義下で国家への包摂と異民族としての排除というダブルバインドを経験してきたことがわかる。

「共生」説明なく

 本年7月に民族共生象徴空間(ウポポイ)が開業した。「共生」とは何か。施設内にもウェブサイトにも説明はない。施設概要には「日本の貴重な文化でありながら存立の危機にあるアイヌ文化」の復興の拠点であり「魅力」に触れられるとある。自文化の維持は、国民としてアイヌに保障される権利である。そこに「魅力」や「貴重」性は関係ないはずだが。

 同施設はアイヌ視点で語ると謳(うた)う。施設の現場で働くアイヌの声は広報に反映されているだろうか。設置の根拠となった「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会報告書」(2009年)は「存立の危機」の理由を、近代日本の政策がアイヌ文化に「深刻な打撃を与えた」こととし、国には復興に配慮する「強い責任がある」と明言した。これらの文言をすべて落としては、あたかも自然のなりゆきや、アイヌの自発的な変化のようではないか。このような主客をあいまいにする語法を、佐々木昌雄が痛烈に批判したのは50年も前だ(『幻視する〈アイヌ〉』草風館・2750円)。

返還されぬ遺骨

 ウポポイでは、全国の大学の和人研究者が収集し、数十年以上置かれていたアイヌの遺骨も保管する。『痛みのペンリウク』で土橋芳美は、縁者の遺骨が北海道大学にあると知ったときの心境を「自分が裸にされ、十字架に架けられ、札幌の大通街にでもさらされているかのような恥ずかしさ、悔しさに涙した」と記す。突き刺さるような描写は、大学等の関係者の目に触れているだろうか。返還はアイヌの「受入体制」の問題なのか。

 日本篤志献体協会によれば、献体後の遺骨は3年ほどで返還され、大学の公式行事として毎年慰霊祭が行われるという。一方、アイヌ遺骨は遺族が懸命に捜しても情報さえ満足に得られない。両者の差をそのままに、尊重を語ることは不可能だろう。

 文化を知ることは、相手に歩み寄るための一つの手段だ。その文化や担い手を抑圧する構造を見なければ、単なる消費や収奪ともなる。「黒人文化だけでなく黒人も愛してほしい」というBLM運動から発せられた言葉は、アイヌの状況にもそのまま重なっている。=朝日新聞2020年10月10日掲載