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いよいよパンを焼く 奥泉光

 新型コロナ禍で逼塞(ひっそく)を余儀なくされた自分は、とくにパン好きでもないにもかかわらず、パンでも焼いてみようと思いたち、小麦の払底などの障害を乗り越え、ついに準備万端整った、というところまでが前回であった。

 で、いよいよパン焼きである。ネットにはパンのレシピや段取りが、動画を含め膨大に載っている。材料についてはどれも大差ないが、作り方は、どのようなパンを焼くかに応じていろいろとある。ネット時代、情報の海をいかに泳ぐかが肝心といわれて久しいが、たしかにどれを参考にすべきか見当がつかない。仕方がないので、いちばん情報量の少ないシンプルなのを選んで、その通りに作業することにした。二百グラムの粉で六個の丸パンを作るレシピである。

 これが過去に何度も作っているイカの塩辛なら、ワタを傷つけぬよう身をひらくとか、塩加減とか、大事なポイントは把握されている。が、なにせ初心であるからして、どこが肝心なのかが分からない。そこで、小麦、水、砂糖、ドライイーストの分量、水の温度、発酵および焼きの温度と時間など、すべてレシピどおり厳格に再現した。意味はわからぬまま、一次、二次と二回生地を発酵させたし、あいだにはベンチタイム(生地を休ませる時間)も正しくとった。それでも粉の捏(こ)ね加減とか、生地の切り分けの厳密度とか、生地の丸め具合とか、完全には把握できていない部分もあって、ことに生地を捏ねる台がないので、俎板(まないた)を代用したあたりに不安はあった。

 工程最後の、オーブンがぼおおと燃える音を聴きつつ、まあ何かはできあがるだろうが、食べたらさしてうまくない、となるだろうと予測した。物事そうそう企図どおりには進むものではない。自分が料理をするようになったのは、ちょうど小説を書きはじめたのと同じ二十歳台の終わり頃だったが(あのときも自分は逼塞していて、小説でも書いてみようと思ったのだった)、はじめのうちは、たとえば炒め物を作るのに、材料を均等に切らぬと火の通りが一様にならぬなど、基本がわからなかったせいでよく失敗したが、そのうちにコツは摑(つか)まれた。パンも同様、何度か失敗を重ねたのち、うまくいくようになるだろうと考えたわけである。

 妻もまた「最初なんだから、うまくいかないのはしょうがないよ」と早くも慰めモードである。これは夫がパンを焼くという、家族にとって利ある事業を今後も継続させたいとの知謀が働いたからで、一度の失敗で「あーあ、もうやめたやめた」となりがちな夫の性質を知悉(ちしつ)しての深慮なのであった。

 やがて二百度で二十分のオーブン焼きが終了する。果たしてパンはうまく焼けたのか? それはまた次回。=朝日新聞2020年10月10日掲載