カズオ・イシグロにとって作家人生のターニングポイントは、20代後半に訪れる。
病気にかかったイシグロはベッドでマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読み、小説の書き方について一種の啓示を得る。記憶や連想のまま、一見無関係な出来事や場面が時系列からも自由に次々と展開されていく書き方に興奮する。
興味深いのは、イシグロが「移動の方法」と呼ぶこの書き方をどう応用したかだ。
プルーストにあっては、記憶は語り手の意志とは無関係に蘇(よみがえ)る。紅茶に浸したマドレーヌが、不揃(ふぞろ)いな石畳が、それらのきっかけがなければ永遠に忘れ去られていたはずの過去の幸福な印象や瞬間を呼び戻す。
しかしイシグロはむしろ、ランダムに甦(よみがえ)る記憶の背後に潜む、語り手自身も気づかぬ、いや気づいているが隠蔽(いんぺい)しようとする暗い過去を暗示するためにこの「方法」を使う。
しかも『失われた時を求めて』の無意志的な記憶は、プルースト自身の生きた体験に根ざすものという意味でリアルだが、イシグロの場合、虚構の人物の体験を通じて、記憶を捏造(ねつぞう)したり都合よく忘却する人間の自己欺瞞(ぎまん)がリアルに描かれる。
『浮世の画家』(飛田茂雄訳、以下、すべてハヤカワepi文庫)の日本人老画家も、傑作『日の名残り』(土屋政雄訳)のイギリス人執事も過去の自らの言動を正当化する。だが語れば語るほど、言葉にされぬ彼らの後悔や悲しみ、失ったものの大きさが、読者にはまざまざと見えてくる。
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イシグロを読むたびに感嘆させられるのは、そのエゴの希薄さと他者への同化力である。そこではつねに記憶の曖昧(あいまい)さやアイデンティティーの不確かさがモチーフとなっているが、面白いくらいイシグロの小説の語り手は、作家本人からも彼のバックグラウンドからも遠い人物ばかりだ。『充たされざる者』(古賀林幸訳)のピアニスト、『わたしたちが孤児だったころ』(入江真佐子訳)の私立探偵、21世紀文学の古典とも呼びたい『わたしを離さないで』(土屋政雄訳)の忘れがたい介護人キャシー。『忘れられた巨人』(同)の中世イギリスの老夫婦。日本を舞台にした第一作『遠い山なみの光』(小野寺健訳)でも、語り手は女性だった。
英米では移民系の作家が自伝的な小説を書くことが多く見られる。しかし5歳で家族とともにイギリスに移住しイギリス人となった長崎生まれのこの作家は、その異なる出自を武器にはせず、類い稀(まれ)な想像力という松明(たいまつ)を手に、自分とはまったく異なる人間の心という迷宮に、感情という深い森に、共感と慎みをもって分け入っていく。
いや、人間だけではない。待ち望まれた新作『クララとお日さま』(土屋政雄訳、早川書房)で、イシグロが一人称の語りでその心のうちを語るのは、AF(人工親友)と呼ばれるAIロボット、クララなのだ。
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AIが「心」を持てるのか。そのような問いは確かにある。だがこの小説を読みながら、ふと暖かい光の波に読者が包まれるのは、自分の持ち主となった少女ジョジーにどこまでも忠実で、その幸福だけを願うクララの、「純な心」としか言えないものに僕たちが触れているからだ。
なぜジョジーは病気なのか。隣家の親友リックが周囲から差別され貧しいのはなぜか。どうしてジョジーの母はクララが娘を模倣することを望むのか。謎が読者を惹(ひ)きつける。
この小説では、「他者になる」ことの意味がクララの体験を通じて探求される。他者になりきり、その心を理解する。考えてみれば、それはイシグロが虚構を通じて誰よりも見事に達成してきたことだ。
本作ではAFのエネルギー源である太陽が重要な役割を果たすが、この「お日さま」の力をクララに強く信じさせるエピソードに登場するのが路上生活者とその犬である。
彼らを見るクララ=イシグロのまなざしは優しい。こんなところにホームレス支援団体で働いていた若きイシグロの記憶が見えないか。
2年前、NHK「日曜美術館」で作家にインタビューする機会を得た。ロンドンでの撮影後、庭に出た僕たちの目の前で音響スタッフが転んだ。「あ」と思った。だがイシグロさんはすでに彼に駆け寄り、支え、起き上がる手助けをしていた。心から心配そうに声をかけながら。僕の愛する「文学」がそこにはあった。=朝日新聞2021年3月31日掲載