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「呪術廻戦」のキャラ・両面宿儺とはなにものか 考古学で読み解く「怪人」の正体

文:宮代栄一 写真は和歌山県大日山35号墳出土の両面人物埴輪。普通の顔と異形の顔が両面に。

 

 歴史上の「両面宿儺」は、8世紀に成立したとされる歴史書「日本書紀」の仁徳天皇の六十五年の条に出てくる。少し長いが、引用してみよう。

 「六十五年に、飛驒国に一人有り。宿儺と曰ふ。其れ為人(ひととなり)、壱体に両面有り。面各相背けり。頂合ひて頂無し。各手足有り。其れ膝有りて膕(ひかがみ)・踵(かかと)無し。力多くして軽く捷し。左右に剣を佩(は)き、四手並びに弓矢を用ふ。是を以ちて、皇命に随はず。人民を掠略めて楽とす。是に、和珥臣が祖難波根子武振熊を遣して誅さしめたまふ」

 (※大意)「飛騨国にひとりの人がいた。宿儺という。一つの胴体に二つの顔があり、それぞれ反対側を向いていた。頭頂は合してうなじがなく、胴体のそれぞれに手足があり、膝はあるが、ひかがみと踵がなかった。力強く軽捷で、左右に剣を帯び、四つの手で二張りの弓矢を用いた。そこで皇命に従わず、人民から略奪することを楽しんでいた。そこで和珥臣の祖、難波根子武振熊を遣わしてこれを誅した」

 ここからわかることは、宿儺と呼ばれる人物が現在の岐阜県北部にあたる飛驒国にいたこと。二つの顔を持ち、それらは反対を向きながら頭の頂点でつながっていること。手足はかく2本ずつで、膝のうしろのくぼみである「ひかがみ」とかかとがなかったこと。略奪を楽しんでいたが、天皇が派遣した武将であるによって討たれたこと、などである。

古代日本に現れた「怪人」たち

 大山古墳ともいわれる伝・仁徳天皇陵古墳は、現在の考古学では、5世紀の築造ということになっている。その仁徳天皇の治世に本当に二つの顔を持つ人間がいたかどうかはさだかではないが、「日本書紀」や各地の「風土記」には、同様の「怪人」が複数登場する。

 たとえば、同じ「日本書紀」の神功皇后の条には、熊襲国に羽白熊鷲(はじろのくまわし)という、翼を持ち空を駆け回る人物がいて、天皇の命令に従わず、略奪を繰り返していたと書かれている。

 また、やはり「日本書紀」の景行天皇の条には、硯田(おおきた)国(現在の大分市付近)の速見邑に2人、直入県に3人の土蜘蛛(つちぐも)がおり、彼らは力強く、従者も多く、天皇の命に従わなかったため、征伐された、とある。

 土蜘蛛は「肥前国風土記」や「豊後国風土記」にも、都知久母・土雲・土知未などの表記で登場する。

 三重大学教授だった考古学者の八賀晋さんは2005年の講演で、彼らは「大和朝廷に従わなかった地域の首長」で、土蜘蛛などの呼称は、大和朝廷にとって耐えがたい人物との卑しみを込めて名付けられたものだと指摘した。

 すなわち、そのころの中央政権である倭王権(大和朝廷)に逆らう、在地の勢力(豪族)が「怪人」として表記されたというのだ。そして、両面宿儺もそんな一人なのだという。

両面宿儺は建築技術集団の長?

 八賀さんによると、「飛驒匠」という言葉が残されているように、飛驒国の工人たちは、律令体制下で、自らの技を朝廷に貢進していたことが知られている。飛驒国は古くから木工建築技術が高度なことで知られ、両面宿儺は、その集団の長であった可能性が高いと八賀さんはみる。

 5世紀になると、飛驒地方には三日町大塚古墳などの前方後円墳が造営される。現在の考古学では、前方後円墳はその埋葬者が倭王権を中心とするグループの一員だった証しと考えられており、当時、倭王権の支配がすでにこの地方に及んでいた可能性が高い。

 八賀さんは、5世紀後半から6世紀は、国造制度が施行された時期で、飛驒国にも国造が任命され、王権への服従儀礼が行われたと考える。そのうえで、「両面宿儺の討伐が本当に仁徳天皇の時代に行われたとは言いがたい」が、「遠い狭少な飛驒の地の話として日本書紀に採録されたのはそれに至る歴史的経緯があった結果」であり、倭王権が飛驒を支配下においたのは、木工を中心とした、その建築加工の技術が中央政権の権威を維持する要素として不可欠であったから、と結論づけている。

両面宿儺、二つの顔の理由

 それにしてもなぜ両面宿儺は、二つの顔を持っているのだろう。

 真っ先に頭に浮かぶのは、「善と悪のメタファー」というような解釈なのだろうが、『顔の考古学』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)を出版した考古学者の設楽博己(ひろみ)さんは「異形ということに意味があるのでは」とみる。

 設楽さんによると、異形には敵や邪悪なものをしりぞける力があると考えられてきた。「表裏に顔のある考古資料は、縄文時代の香炉形土器や弥生時代の再葬墓から見つかる人形土器などに例があるが、それらが二つとも同じ表情の顔を持つのに対し、和歌山市の大日山35号墳から出土した入れ墨入りの埴輪では、片面の顔だけが口が裂けた異形に表現されている」

大日山35号墳出土の両面人物埴輪の異形の顔

 この表現のルーツと考えられるのが、中国の鬼神の一種である「方相氏」だ。設楽さんによると、漢代の盾と戈(か)をもつ方相氏の俑には、片面に不気味な笑いを浮かべた顔を、反対に無表情の顔をつけたものが相当数あるという。

 「この場合の笑いは、敵を退散させる意味がある。古墳時代の埴輪には、黥面(いれずみを施した)のもののほかに、耳や鼻を誇張して口が裂けたように笑っている盾持人埴輪(たてもちびと)などがあるが、いずれも、古墳を邪悪なものから守るという意味を持っており、起源は漢文化にあるといってよい」

埼玉県前の山古墳出土の盾持人(たてもちびと)埴輪

 墓に埋葬して、邪悪なものから墓を守る目的として、弥生時代の長野や北関東などでは、土器に人形の装飾をつけた「人形(ひとがた)土器」が使われている。

長野県西一里塚遺跡群出土の人形(ひとがた)土器

 設楽さんによると、異形であること(すなわちマイノリティであること)は、縄文時代には単に力の源泉とだけみられていたが、弥生時代以降、特に古墳時代に顕著となる大陸との交流のなかで、差別意識を伴う辟邪思想にとって替わられる。そして、邪を払うためだった鬼神の形相は最終的には悪と判断に転落させられていくという。

「呪術廻戦」でさらなる活躍の予感

 「呪術廻戦」に出てくる両面宿儺は本領を発揮していないせいか、二つ目の異なる顔をいまだ見せていないが、現在、伝説とともに岐阜県に残されている両面宿儺の像は、千光寺蔵の有名な円空作のものが、顔が正面に二つ並ぶほかは、いずれも頭の前後に同じ表情の顔が造形されている。

 「術師全盛の時代、総力をあげて彼に挑み、破れた」と「呪術廻戦」で描かれる両面宿儺は、よくみると、その力が顕現している時、額とほおに、梵字をイメージしたような入れ墨状の表現がみられる。

 岐阜県の日龍峯寺に残る両面宿儺像は、唐風の甲冑を身につけた武将の姿として表現されており、寺の縁起では、両面宿儺は、陀羅尼経を唱えることで、村人に危害を加えていた龍を退散させ(あるいは滅ぼし)、その地に寺を開いた超人的な人物とされている。

 さらに同県には、両面宿儺は天皇に命じられて鬼を退治したり、大和朝廷から朝敵とされて滅ぼされた豪族だったといった伝承も残る。

 日本古代文学研究者である永藤靖さんの論文によると日龍峯寺の両面宿儺は寺を開いたとされる重要人物でありながら、現在は本堂には安置されていない。永藤さんは、両面宿儺の「異形」は「スティグマ(聖なるしるし)」であったが、仏教が流布される過程で、身体に刻印された異常性が強調され、それを隠蔽するようになっていったのではないかとみる。

 永藤さんによれば、龍は水の象徴であり、害をなす龍とは洪水を意味することから、それを征伐した両面宿儺は「水界をコントロールできる英雄」だったと考えられるという。

 漫画の両面宿儺のいれずみが、かりに梵字であるなら、いまだ見せていない、水に関わるパワーが、仏の力で身体におさえこまれているといったことも考えられるのではないか。今後の展開が楽しみだ。