落ち着いて考えればごく普通の献立なのに、作るにも食べるにもなぜか腰が引ける料理が、私にはある。それは「すき焼き」だ。
家族用なので特段いい肉を買うわけではないし、ネギだって豆腐だってありふれた食材だ。だが砂糖や醬油(しょうゆ)を惜しげもなく使う料理法のためか、明治期に文明開化の象徴の一つとして食べられた牛鍋のイメージのせいか。他の鍋料理とすき焼きの間には、どうにも埋めがたい溝がある気がする。わかっている。それはあくまで思い込みだ。しかし料理とは作り手の腰が引ければ最後、食卓に上る回数は激減する。おかげで家族全員の好物にもかかわらず、我が家でのすき焼きの登場頻度は極めて低い。そればかりか、時々、牛丼屋さんで食事を取る際も、牛すき定食の類はなんとなく頼みづらかったその最中、思わぬ事件が起きた。自分では絶対買わぬであろう上等な冷凍すき焼き肉をいただいたのだ。
これが他の食材なら、わーいと声を上げ、すぐ平らげた。だが、相手はすき焼きだ。すぐさま冷凍庫に放り込み、綿密な計画を立て始めたものの、不思議にそうなるとなかなか家族が揃(そろ)わない。よし、今日こそはと覚悟を決めると、そんな時に限って冷蔵庫には絹豆腐しかない。他の料理なら通してしまう無理も、すき焼きとなると通しづらい。
ただ一方で私は、この思い込みが完全なる自縄自縛であることを、冷静に理解している。だからきっといつか私は、自分で掘ったすき焼きを巡る溝を、いとも軽々と飛び越えるのだろう。牛丼屋さんでも意気揚々と牛すきを頼むようになるのだろう。そんな己が容易に想像できればこそ、現在のすき焼きへの姿勢を崩すのが嬉(うれ)しいような怖いような複雑な気分になり、ますますすき焼き作りに腰が引ける。かくして我が家の冷凍庫にはいまだ、上質な肉が眠り続けているが、冷凍肉の美味(おい)しい保存期間は実は決して長くはない。謹厳なるすき焼きとの別れは、もうすぐなのかもしれない。=朝日新聞2021年4月21日掲載