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映画「寛解の連続」光永惇監督に影響を与えた3冊 生きることを肯定したくなるものを作りたい

文:宮崎敬太、写真:有村蓮

 映画「寛解の連続」は異能のラッパー・小林勝行に密着した長編ドキュメンタリーだ。小林は神戸薔薇尻(こうべばらけつ)名義で突如シーンに登場し、2011年に名義を本名にして1stアルバム「神戸薔薇尻」を発表した。地方都市に生まれ、社会に適応できなかった彼は、あがきの道程を作品に吹き込んだ。詩的な視点と表現、固い韻、ヤンキー丸出しのワードチョイス、独特のユーモア。見つめる希望につかみどころはないが、絶望には支配されない。ヒップホップの日本的なリアルが刻み込まれた「神戸薔薇尻」は高く評価され、小林にも注目が集まった。が、突如として活動を休止。躁鬱病の症状が悪化したためだった。

 映画は隔離病棟を退院し、介護の仕事をしながら2ndアルバム「かっつん」を制作する小林を記録した作品となる。制作には6年の歳月を費やした。

ドキュメンタリー映画『寛解の連続』予告編

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 もともと映画をやりたいと思ったのは大学生の頃です。芸術系ではなく普通の学校に通ってたけど、自分で何かを創作したい気持ちはありました。でもそれが映画なのか、音楽なのか、文章なのかがわからなくて。そんな状態でなんとなく映画館でバイトしてました。そしたら映写技師のおっさんが「自転車泥棒」というイタリア映画を教えてくれたんです。

 1948年に作られた作品で、ストーリーも商売道具の自転車を盗まれた貧乏人の親子が町を探し回るだけなんですね。「辛気臭いなぁ」と思いつつ見てみたら、これがめっちゃ良かった(笑)。「自転車泥棒」は第二次世界大戦が終わったすぐ後に作られた作品です。映画産業のシステムが崩壊してたから、撮影はちゃんとしたスタジオじゃなく、荒廃した路上で撮影してて、役者もそこらへんにいる素人なんです。

 僕が好きなのは、子供が教会の礼拝堂を通りすぎるシーン。一度ダッシュで素通りするんだけど、すぐに戻ってきて、十字を切ってまた自転車を探しに行く。何気ない滑稽なシーンなんだけど、戦後イタリアの状況も踏まえた上で、人間の感情が動作や表情や光の加減を通じて表現されてた。なんて完璧なんだと思った。それを見て、自分が作りたい「何か」はこれだと確信したんです。

 それで最初は低予算のピンク映画の現場で下っ端をしました。でも肉体的にも精神的にもキツすぎて、「もう自分でやろう」と。その段階から小林さんが念頭にあったんです。

 僕が初めて小林さんを知ったのは高校生の時。「CONCRETE GREEN」というコンピレーションアルバムで神戸薔薇尻の曲を聴いて「同時代にこんな人がいるのか」と衝撃を受けました。でもあの人ってほとんどメディアに出てなくて。MVもなかったし。知ってる限りでは、都築響一さんの『ヒップホップの詩人たち』といくつかのネット記事くらい。僕もどんな人か知らなかった。けど明らかに尋常じゃないから、撮ったら面白くなる確信はあって。そんな時、小林さんが映像を撮る人を探しているとTwitterで知ってすぐに連絡をとりました。

ジル・ドゥルーズ「シネマ2*時間イメージ」

 それで「映画だ!」となったのは良かったけど、実際はなかなか確信が持てなかったんですよ(笑)。そんな時にフランスの哲学者・ドゥルーズの映画論『シネマ2*時間イメージ』を読みました。『シネマ1*運動イメージ』に続く内容で、映画が人や世界に与える力や影響について書かれている。特に6〜8章で「映画は世界を映すものでも、人間を映すものでもなく、世界と人間の絆を映すものだ」みたいなことが書かれててすごく勇気付けられました。

 映画はコミュニケーションの回路。インテリが巣にこもってやってるだけのものじゃないし、大衆が憂さ晴らしに観るだけのものでもない。その間にあって、悩んでる人を世界とつなげるためのものだと思ってるんです。

小泉義之「病いの哲学」

 映画「寛解の連続」の大きなテーマは“病”です。小林さんは躁鬱病(双極性障害)と診断されて、医者から「一生治ることがない病気だ」と言われた。けど僕は小林さんに密着して、友人の一人として話を聞いていて、彼の生来の気質が現代社会に適合してないという理由で病名をつけられたような気もした。

 「寛解の連続」は小林さんの2ndアルバム「かっつん」の収録曲のタイトルでもあります。撮影中に「“寛解の連続”って曲を作っとんねん」と聞いて、最初はすごく複雑な言葉だと思いました。寛解とは完治してないが、再発してもない状態を指す言葉です。聞きようによっては病気の当事者の主観的な立場を無視した勝手な言葉でもある。でも小林さんが生み出した「寛解の連続」という言葉には、当事者だから言えるネガティブさもひっくるめた上でのポジティブなエネルギーを感じました。

 映画を作り終えて、この「寛解の連続」という言葉について改めて考えた時、一番役立ったのがこの小泉義之さんの『病いの哲学』でした。小泉さんは日本のドゥルーズ研究の第一人者です。京都で「寛解の連続」の上映会をした時、小泉さんの教え子の方が来てくれて、その時に『病いの哲学』を薦めてもらいました。

撮影協力:音楽喫茶MOJO(04-2923-3323/http://mojo-m.com)

 この本は死を美化したり、そこに何か意味を見出そうとする「死の哲学」を否定して、病について考えてきた人たちの哲学、「病いの哲学」を浮かび上がらせるというものでした。特に印象的だったのはマルセルという哲学者が「治らない病の回復を願うこと」について言ってたこと。それって不可能なことを信じることで、まさにそうやって信じる行為自体が奇跡だと書いてありました。その奇跡は遠くにある夢や理想ではなく、計算からはみ出すことで溢れた目の前の現実を信用する、その生き方に関わっていると。僕はこの本を読んで、小林さんが生み出した「寛解の連続」という概念も、ある意味奇跡みたいなことなのかなって思ってるんです。

ジェイムズ・ジョイス「ダブリンの市民」

 映画を見ていただくとわかるんですが、小林さんって独り言がすごく多い。逆に僕自身は口に出さず脳内でぶつぶつ喋ってるタイプ。自分の頭の中では話が進んで、どんどん盛り上がるんだけど、それを現実世界で他者に伝えようとすると(盛り上がりのテンションが違いすぎて)「え、なに?」みたくなる。『ダブリンの市民』という短編集では、そういう脳内と現実の乖離が描写されているのが好きなんです。

 特に好きなのは「死者たち」。夫婦のすれ違いを通じて、とても身近な人であっても、心の中には決して踏み込めないということが書かれてる。でもこの作品が素晴らしいのは、それを否定的に捉えるのではなく、分かり合えないことも含めて人間を肯定してるからなんです。(人間って)そんなもんだよねというか。突き放してるようで優しさもある。

 ジョイスは平凡な感情や出来事を細心の注意で観察して、人間の本質があらわになる瞬間を描くことが文学の使命だと言っています。「寛解の連続」を作る上で、同じようなことを僕自身も意識していました。カメラで人物の内面を撮ることはできないけど、置かれた状況やしぐさや光の加減なんかが絡まりあって、気持ちを象徴的に捉えることができる。さらに言うと、僕は脳内の独り言と、口に出す独り言って違うと思うんです。頭で思ってても言葉にできない言葉がある。でも小林さんはそういうのをバンバン独り言で吐き出しながら創作するんです。そして世界とぶつかっていく。生きる文学みたいな不思議な人です。

 この映画の中で、小林さんは自分の複雑な人生を再構築しながら、世界との絆を求めて創作しています。悩みながら自分と向き合って、それをちょっとずつ形にしながら、前に進んでいる人を撮ることで、心に何かを抱えた人たちに「独りじゃないんだ」と感じてもらえるものを作れるような気がしたんです。僕は見た人が世界との絆を感じてもらえる映画を作りたかった。

 世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えがある。今の世の中は見栄えのいい「多様性」という言葉だけが一人歩きしてるような気がするけど、本当の意味で多様な世界には見たくもないようなものも含まれている。けど、そこで諦めちゃうニヒリズムに価値を見出すのではなく、ニヒリズムは大前提として、それでも生きることを肯定したくなるようなものを今後も作っていきたいです。