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坂口恭平さん『躁鬱大学』インタビュー 気分の波に悩むすべての人に贈る“読むクスリ”

文:岩本恵美、写真:北原千恵美

躁鬱とは体質である

――昨年noteにアップされた時には、躁鬱病と診断されたことがない自分には関係ない内容かなと思って読んでいなかったのですが、大間違いでした。気分の浮き沈みは、大なり小なり人にはつきものですもんね。

 僕は『躁鬱大学』っていう体(てい)がただ欲しいだけ。言おうとしていることは万人向けなんです。躁鬱って病気というよりは体質で、アレルギーみたいなものなんですよ。ところが、多くの精神科の先生は症状しか見ていないんです。チェックリストの項目を照らし合わせて躁鬱病と診断して、気分が暴れないようにするために薬を渡す。本当は人間の行動には理由があるはずなのに、一切の因果を無視されている気がして違和感がありました。それで原因を自分なりに究明したくて必死で躁鬱病について調べていたんだと思う。偶然ネット上で見つけた「神田橋語録」(精神科医・神田橋條治さんによる躁鬱病についての口述記録)をヒントに、『躁鬱大学』に書いたような自分なりの対処法を考えるようになったんです。

――本書の「その10 トイレを増やせば、自殺はなくなります」(坂口さんのnoteでも公開中)で、躁鬱に関係なく「人は人からどう見られているかということだけを悩んでいる」という言葉にはハッとさせられました。

 ほんと、それだけなんですよ。でも、自分が好きでもない人に嫌われても別によくないですか? 人間関係で悩んでいる人に、会社の同僚にしろ上司にしろ、「その悩みの種になっている人とプライベートでも一緒に遊びたいの?」って聞くと、「絶対に無理」って言う。みんな当たり前のことで悩みすぎなんですよ。この悩みは人類共通、生理現象みたいなものなんです。

大切なのは「自分の言葉」を使うこと

――特に躁鬱人(躁鬱病の人を指す坂口さんの造語)は、評価の基準が常に他人にあるそうですね。

 10年間「いのっちの電話」(坂口さん自身が携帯電話番号を公表し、自殺志願者の悩みを聞く電話相談)をやってきて、みんなの死にたいライフスタイル、悩み方って10パターンもないんです。もう分かるんですよ、電話を受けると相手が言おうとしていることが。

 占い師に近いんじゃないですかね。会話のレゴブロックというかテトリス状態です。結局、人間って言葉によって形づくられていて、自分で模倣していくんです。相手が言おうとしていることを何で僕が分かるのかっていうと、みんな誰かの言葉を模倣しているだけなんですよ。だから、自分の言葉っていうものを一切言ってなくて、その結果、鬱になる。嫌な状態の中に入ってしまっていて、しかも話を聞いてくれる人がいないからって拗ねているだけなんです。

――素直になれないんですね。前回の『cook』のインタビューで、坂口さんが「自分はプロの素直な人」と言っていたのがとても印象に残っています。でも、坂口さんレベルのプロフェッショナルな素直になるのはかなりハードルが高いです。

 でも、素直じゃないってことは、誰かの言葉を使っているってことなんですよ。自分の心に素直な、自分自身の言葉だったら、そんな言葉は言わないわけです。素直にのびのびといられた時が体もいちばん楽なんですよ。

――坂口さんはこの2年ほどは鬱状態になっていないそうですね。

 そうですね。だけど、今年の正月前ぐらいの時は「きついなぁ」と思うことがあったんですよ。嫁さんが「今までだったら死にたいと思うくらい、きつい状態だわ」と言っていました。

――それは坂口さんの中でも何か変わったということでしょうか?

 1日も絵を描くことを休んでいなかったから、創ることを一切止めてない。あと、畑にも毎日行っていました。多少きつくても体を動かす、手を動かすことを身につけることによって、鬱という概念から完全に解けていけるんです。

 だけど、鬱状態になると、みんなは止まっちゃうんですよ。鬱の時の休み方っていうと、みんな大体、引きこもって誰にも会わずに携帯の電源を切って寝ているんですよね。まあ、ふて寝社会ですよ。でも、そうやってベッドで寝こんでいても疲れが癒えることはないんです。なぜなら、ベッドの中で自分をずっと攻撃しているから。自分のものではない、他人が作った既成の言葉で。「どうせ私なんて」っていうのが口癖ですよ。『躁鬱大学』は躁鬱人のための語学を学ぶ場であって、言葉をまずは変えるということがとても重要なんです。

――他者の言葉で、自分で自分を一方的に傷つけているんですね。

 ダイアログ化していないんです。だから、僕はダイアログを求めるために「いのっちの電話」をやるわけです。

 「いのっちの電話」でいつも言うのは、人から何と言われたって俺に電話すればあなたのいい所を全部言ってあげるってこと。自分もそういう人たちに助けられてきたから。

 僕って、才能が溢れていると勘違いされるんですけど、21歳の時は「作家になる」って言っても、ほとんど「はぁ?」って言われて終わりでしたから。でも、友だちになるわけでも頻繁に会うわけでなくても、周りに何人か「あなたのここが私は好きだから、絶対大丈夫」という人たちがいたんです。

坂口恭平は超人なのか?

――でも、やっぱり坂口さんだから、こんなことができるんじゃないかっていう気持ちもあります。

 でも、別に僕、はっきり言って何にも上手じゃないですよ。ただ研究熱心ってだけ。そして、練習を絶対にサボらない。ただの素朴な真面目な人でしかないんです(笑)。みんな僕が練習しているところ、どんな練習をしているのかは見ていない。例えば、何を書くのか考えずに毎日朝4時に起きて9時までに原稿10枚書くことって不可能なはずなんですよ。だけど、続けていたら不可能じゃなくなっていくんです。

――継続の賜物であり、坂口さんにとってやっぱり日課はすごく大事なんですね。一方で、坂口さんの自由で多彩な活動や生き方を見ていて、「悔しい」と漏らした友人がいます。自分のこれまでの生き方、窮屈な中で頑張ってきたことを否定されているような気がすると。

 わかりますよ。気に入らないんですよね。チクチクする。でも、すごいのが「悔しい」ってことは同じフィールドで考えられているということなんですよ。つまり、僕の初期能力が超サイヤ人だったらきっと諦めるんだけど、そうでないがために、どんぐりの背比べをしてくれている。それは僕の作戦どおり。僕が半端ない奴なら、みんな何も考えなくなるから。ピカソやイチローならしょうがないってなるでしょ。でも僕の場合、そういう天才に見えないようにするのが生活実験の一つなんです。

 だから、その悔しさって嬉しいんですよ。僕のことをすごい人って思考で見ていなくて。自分も努力すればできるのに、何でしなかったんだろうってことが悔しいわけでしょ。僕に対してじゃなくて、やってこなかった時間に対して悔しいわけだから。

 僕の親も「芸術で生きていくなんてできない」って断言したんですよ。僕ができると思っているのに。そういう社会の目、それに対して呪詛を感じていて、その呪いを祓わないといけない。だから、僕は全部教えるんです。自分がどうやったか全部。

――『躁鬱大学』もその一つなんですね。

 躁鬱についてのいい本がないのが現状なので。薬では治らない原因があるんだから、原因を取り除かないと薬を飲んでもしょうがないでしょ。まずは躁鬱人が自分自身に対して前向きな認識を持たないと。躁鬱人っていうのは喜びを作り出すのが得意なんです。それを他人が「何やってるの?」って突っ込むところから病気が始まるわけですよ。子どもの時はそういうツッコミもなかったけど、大人になったらそのツッコミに対してアダルトにビターな感じで対応していく必要がある。繊細さと大胆さを微妙なスペクトルで組み合わせていく。その術を覚えていくとちょっとずつ面白みが増してくるんです。躁鬱人にとっては非常に有意義な本であることは間違いないはず。

 ひいては躁鬱とか関係ない人たちにも、気分の波という視点で読んでもらえれば。今のコロナ禍、突然、波が訪れている人も多いだろうから。鬱っていうのも、やっぱりある程度、生きるたしなみなんでね。そういう意味では、ちょっと躁鬱フレーバーを味わっておくということが今の非躁鬱人たちにとっても必要なのかもしれないですね。