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砂原浩太朗『高瀬庄左衛門御留書』 正しく美しい生き方に心が洗われる

 高瀬庄左衛門は、息子に公職を引き継ぎ、好きな絵を描きながら実質的に隠居状態だった寡(やもめ)の老武士である。このまま何事もなく人生を終える時を待つばかりだった。ところが突然の息子の死から始まる藩を揺るがす騒動の渦中に巻き込まれてしまう。ストーリーは複雑だが、登場人物たちのキャラクターが明瞭なのでぐいぐいと読み進むことが出来る。息子の死の真相が明らかになる結末の最後の一行まで私の心を摑(つか)んで離さない。私は、「心が洗われる」というのは、こういう感覚を言うのだと実感した。溜(た)まっていたどろどろした澱(おり)がすっきりと洗い流され、心が軽くなった。それは、彼の生き方が正しく美しいからに他ならない。

 現実社会には平気で噓(うそ)をつく政治家や官僚そして金儲(もう)けに狂奔する経営者たちが溢(あふ)れ、私たちは彼らに倦(う)み疲れ、憎しみさえ抱いている。しかし結局、「正直者は馬鹿を見る」と諦め、妥協を強いられて暮らしている。しかし庄左衛門は違う。どんな困難な立場に追い詰められようとも我欲を捨てて覚悟を決める。「選んだ以外の生き方があった、とは思わぬことだ」と彼は言う。どんなに不利益でも、迷わず彼にとっての正しく美しい道を選択する。私たちは、彼のように生きたいと願いつつも現実世界ではままならない。しかし本書の中に浸ることで彼に同化し、同じ生き方を選択する。その時、「心が洗われる」感覚を実感するのだろう。

 一例を挙げよう。目付による詮議(せんぎ)の場で彼は強訴を扇動した罪に問われる。無実を証明するには、友の名を白状しなければならない。無罪か死罪か、究極の選択である。彼は、「まこと、齢(とし)はとりたくないもの」と忘れたふりをする。死罪を覚悟した堂々と、そしてゆったりした彼の笑みが目に浮かぶ。痺(しび)れるほどカッコいいではないか。

 私は、故葉室麟氏のファンである。本書と出会い、氏の系譜を継ぐ作家が登場したことに思わず快哉(かいさい)を叫んだのである。=朝日新聞2021年6月5日掲載

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 講談社・1870円=6刷2万2千部。1月刊。著者は69年生まれ。出版社勤務を経てフリーとなり、デビュー2作目の今作で今年の山本周五郎賞の候補に選ばれた。