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心を緩ませ、日常の手触り伝える「急がなくてもよいことを」 

 「この光景を留(とど)めておきたい」と思う瞬間は数あれど、心が動いた瞬間を上回る写真を撮れたためしがない。薄らぼんやりとそんな思いを抱えてきたが、本作を読んで、手元に置いておきたかったのはこんなシーンだと思った。

 十数年にわたる同人活動で、著者が描いてきたのは随筆マンガだ。実家に帰るたび立ち寄っていた菓子店、旅先で感じたいつもとは違う光の加減、海水浴の帰りに子どもたちと食べたアイスクリーム……。目に馴染(なじ)みがあるシーンばかりだというのに、ここに切り取られた18作品は全て眩(まぶ)しい光を放っている。著者が年を重ねるにつけ、父母は老い、恋人は妻になり、やがて家族が増える。移ろいゆく世にあって、人と人が交わり生まれた特別な瞬間も過ぎ去れば跡形もない。しかし、ここに描かれた“ある瞬間”には、心を緩ませる確かな手触りがある。

 私的な内容ではあるものの、読み手の日常とも地続きであるかのような対象との距離感やリアルさの加減も丁度(ちょうど)いい。何より、「この日、この瞬間を忘れないでおきたい」という著者の祈りにも似た視点が大きく、温かく感じられ、読後に洗われた裸の心を優しく包み込んでくれる。=朝日新聞2021年6月19日掲載