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「ブリーディング・エッジ」書評 21世紀の写実と化した奇想小説

評者: 生井英考 / 朝⽇新聞掲載:2021年08月07日
ブリーディング・エッジ (Thomas Pynchon Complete Collection) 著者:トマス・ピンチョン 出版社:新潮社 ジャンル:小説

ISBN: 9784105372149
発売⽇: 2021/05/26
サイズ: 20cm/701p

「ブリーディング・エッジ」 [著]トマス・ピンチョン

 いまさらと失笑されそうな気もするが、21世紀はいつのまにか「事実は小説より奇なり」が裸足で逃げ出す時代になってしまった。とりわけこの数年は陰謀論の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)が表舞台にまでおよんだからなおさらだ。
 そんな常識外れの幕開けが、もうじき20年になる「9・11」同時多発テロ。本書はこの事件をまさに陰謀論がらみで描いた長編小説である。
 もっとも作者は半世紀以上も陰謀論的な世界を描いて知られた大家だから、ありきたりの設定には洟(はな)もひっかけない。
 主人公マキシーンは育ち盛りの男の子2人を送り迎えするアラフォー女性で、マンハッタンはアッパー・ウェストサイドの住人。ボヘミアン気質の富裕な近隣だから、そこだけ読めば「ニューヨーカー短編集」でも似合う風俗小説の趣だ。
 一方、彼女の勤め先は不正会計専門の調査会社。つまり彼女は経理詐欺の探偵というわけで、物語はノワール小説の趣向も備える。さらに物語の始まりはドットコム・バブルがはじけてまもない2001年春。依頼の不正疑惑を追跡するうち「9・11」につながる謀略の影が見え隠れし、やがて悲劇に見舞われた街は陰謀説のパラノイアとびかう魔都となる……。
 特筆すべきは後段になってもなお、全体に流れる女子会のお喋(しゃべ)りめいたコミカルなトーンが衰えないことだろう。ピンチョン作品の特徴のひとつはマンガ的な細密描写だが、あの事件にからめて書かれた多数のアメリカ小説の中で、若さと年波の半ばする女性を主役にした本書のかしましさは群を抜く。
 ふりかえると前世紀の半ば、今日の私たちが陰謀論小説と呼ぶ物語は奇想天外の風刺や寓話(ぐうわ)と位置づけられていた。しかしいまそれは、癒えない傷を心に抱えながら日常の些事(さじ)をやりくりし、笑いと怒りとあきらめを折衷しながら、それでも生きる時代の写実になっているのかもしれない。
    ◇
Thomas Pynchon 1937年生まれ。米国の作家。著書に『V.』『重力の虹』『ヴァインランド』など。