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「白光」書評 自分らしさの枷から離れた先に

評者: 大矢博子 / 朝⽇新聞掲載:2021年09月18日
白光 著者:朝井 まかて 出版社:文藝春秋 ジャンル:小説

ISBN: 9784163914022
発売⽇: 2021/07/26
サイズ: 20cm/498p

「白光」 [著]朝井まかて

 『眩(くらら)』で葛飾北斎の娘・葛飾応為(おうい)を描いた朝井まかてが、再び女性絵師の生涯に向き合った。明治期に活躍した日本初の聖像画師・山下りんである。
 開国して間もない明治6年、絵師になりたくて笠間(現茨城県笠間市)から上京したりんは、様々な師匠の元を経て明治10年に工部美術学校に入学、西洋画を学んだ。さらに神田駿河台のロシヤ正教会で宣教師ニコライと会い、イコン(聖像画)を学ぶためサンクトペテルブルクの修道院へ留学するチャンスを得る。
 まず、りんが魅力的だ。勝ち気で正直で、こうと決めたら一直線。貧乏にも挫(くじ)けず、学ぶことが楽しくて仕方ない。結婚なんて興味ない、私は絵が描きたいんだという生き生きした女性の姿が浮かんでくる。
 ところが修道院の工房で模写を命じられたのは、平板で稚拙な古いイコンだった。これでは近代西洋画の勉強にならない――。
 イコンとは正教会で用いられる聖人や聖書の場面を描いた絵のこと。絵師の署名は入れず、自己表現としての芸術とは対極にある。自分の意見をはっきり主張し、芸術のためなら他者とぶつかることも厭(いと)わないりんが、なぜ無名性を尊ぶ聖像画師になったのか。
 その謎を解く鍵が、稚拙な絵の模写ばかりやらされた理由だ。そこにりんが気づく過程には思わず膝(ひざ)を打った。自己実現や自分らしさといった枷(かせ)から離れることで、人は「自分」という枠からも自由になれるのだと伝わってきた。晩年のりんの清々(すがすが)しさたるや!
 本書のもうひとつの軸は当時の社会の描写だ。明治期の美術教育や印刷技術が詳細かつ具体的に活写される。その一方で、対露関係が次第に軋(きし)み始める。急速に西洋文化が流入して来た時代のエネルギッシュな息吹と、急速だったが故に強まる軋轢(あつれき)が、そこにあるかのように色と温度を持って迫って来る。さすがの筆力だ。時代とりん、両方の生命力に溢(あふ)れた一冊である。
    ◇
あさい・まかて 1959年生まれ。2014年に『恋歌』で直木賞、2018年に『悪玉伝』で司馬遼太郎賞。