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切実な想いに満ちた成長小説「某」 小澤英実が薦める文庫3点

小澤英実が薦める文庫この新刊!

  1. 『某』 川上弘美著 幻冬舎文庫 825円
  2. 『極北へ』 石川直樹著 毎日文庫 880円
  3. 『溶ける街 透ける路(みち)』 多和田葉子著 講談社文芸文庫 1760円

 (1)「わたしとは何者か」という問いを「何者でもない者」の遍歴から探求していく、斬新で風変わりな成長小説だ。なにしろ主人公は当初、成長も変化もせず、さまざまな人間に「擬態」して転生を繰り返す、不思議な生命体・某として登場する。女子高生や事務職員の青年や寡黙な日雇い労働者となって人間と関わり、同種の生命体に出会うことで、少しずつ自分の輪郭を知り、愛やさみしさを知る。架空の物語だけが描きうる、実在するものの切実な想(おも)いが小説空間のなかにこだまする、すごい小説だ。

 芸術家も登山家も、「何者か」にならなければ食べていけない職業なはずなのに、(2)の著者のことばには、そうした気負いや自意識がまるで感じられない。それはきっと、自然の驚異を前にした自己の卑小さを、誰よりも知り抜いているからだろう。二十歳ごろから魅了されつづけた極北の地をめぐるこのエッセイには、過酷な自然に生きる人々の知恵や、地球に流れる悠久の時間に対する憧憬(しょうけい)や敬意が、生きる力の鍛錬によって培われたしなやかで強靱(きょうじん)な文体で綴(つづ)られている。

 旅の記録とは、ことばの旅でもある。(3)のエッセイは、著者が二年ほどで訪れた五十近い町の記憶が詰まった宝石箱だ。作家として招かれるままフットワーク軽く世界中を巡り、ローカルな人々に交じり、文学仲間と集合離散を繰り返す。著者にしかできない特別な旅も、ことばという乗り物さえあればいつだって相伴できる。その歓(よろこ)びをいま改めて思う。=朝日新聞2021年9月25日掲載