――前作の「民王」は2010年5月の刊行でした。当時は国会での漢字の読み間違いや現職大臣の泥酔会見など現実にあった出来事を下敷きに読んでいたのですが、その記憶が薄れると、コメディーの味わいがより純粋に楽しめます。
どたばたのコメディーを書いたつもりはないんです。当時は、リコールをなぜ隠すのだろうかという疑問から書き始めた『空飛ぶタイヤ』(06年)、談合はなぜなくならないのかという疑問から生まれた『鉄の骨』(09年)と、素朴だけれど本質的な疑問を小説のテーマにしていて、『民王』では、なぜ漢字が読めないような人が総理大臣になれるのかという疑問を小説のなかで解きほぐそうと思っていたのです。
2015年にドラマ化もされ、多くの人に読んでもらえました。いつか続編をと思っていたものの、書き出すためには、なにか強い疑問が必要でした。なかなか書くきっかけがなかったのですが、米国でのトランプ政権のどたばたが伝えられるようになったあたりから、書くべきときが来たかなと感じるようになりました。
でも、実際に書き始めてみると、これまでにないくらい難しかった。世にはびこる陰謀論やトランプ政権末期の現実の政治などの方がはるかにばかばかしすぎて、小説の小説らしさが失われるような感じでした。連邦議会議事堂への乱入事件が起きたときには、それまで書いていたものがまったく意味を失ってしまったと思って、一回、原稿を全部ボツにしたくらいです。
――『民王 シベリアの陰謀』のテーマになった素朴な疑問は何だったのですか?
いくつかの要素が組み合わさっているのですが、一番大きいのは「人はなぜ陰謀論を信じるのか」というものです。私も仕事が終わった後の息抜きで、CS放送の「古代の宇宙人」などのシリーズを見ています。あのうさんくささが大好きで……。陰謀論はそれと同じなのに、真に受けて信じている人が多いことに驚かされます。
ネタバレになるので詳しくは明かせませんが、どうしてだろうと考えているときに、うつ病の原因に関する記事を新聞で見つけ、それが突破口になりました。新聞は紙で読んでいますが、同時にデジタルでも気になる記事をクリップして、小説を書くときにそれを整理して見直しています。新聞社の媒体だから言うわけではないけれど、新聞には貴重な情報が詰まっていますよ。
――その突破口も含めて、リアルな現実とフィクションの距離感が絶妙です。
これはいわば詐欺師の手法ですね(笑い)。9割くらい本当のことを書いていると、1割くらいうそを入れても信じてもらえる。ばかばかしいことを書いているので、真実もちりばめておかないと。犬が活躍するエピソードは、うそのような本当の話です。新聞を読んでいたら、フランスで同じ取り組みがあると知って。一瞬、自分のアイデアが海外に流出したかと思いましたよ(笑い)。
断絶の時代に寛容さとおかしみを
――前作の『民王』の帯には「痛快エンタメ政治小説」というフレーズもありました。似た系統の小説が何かと考えたときに浮かんだのは、井上ひさしさんの『吉里吉里人』でした。小さな村の独立騒動を通して、笑いのなかで、国とは何かを考えさせるものでした。
井上ひさしさんのように主義主張をちゃんと持っているわけではないので、自分の小説についてだけ話すと、小説はただ笑えればそれでいいというわけではない。どたばたのギャグの応酬は書きたくないし、おもしろいとは思えない。おかしみは、登場人物に寄りそうなかで自然と生まれてくるもので、計算され尽くした笑いは「泣ける小説」と同様にしらけてしまう。半沢シリーズでも、半沢と渡真利の会話などに、ちょっと軽妙な部分が生まれたりしますね。
怒っていたり、悲しんでいたりするのを描くのに比べ、寛容やおかしみを描くのは難しい。いまの社会が断絶と不寛容の方向に進んでいますから、この小説はちょっと難しいところに切り込んでいくものになっているかもしれません。
――前作の『民王』がコメディーだったとすると、今回の『民王 シベリアの陰謀』は世界的に政治状況が混沌とするなかで、泰山らが不条理な政治・社会状況のなかに投げ込まれているおかしみが出ていました。前作に続いて登場した希代のポピュリストである都知事・小中寿太郎がウイルス対策の切り札として繰り出す施策は、ありえそうなだけにしみじみおかしかったです。
確かに今回の作品はコメディーよりも不条理劇のおかしみの方が近いような気がします。今回の作品の読み方は読者にゆだねているので、できるだけ先入観を与えないように、インタビューもほとんど受けず、版元にもあまり宣伝しないでくれと釘をさしました。前作『民王』の愛読者だけでなく、軽いエンタメを楽しみたいという人が何の情報もなく、書店の片隅でこの本に出会って、ああ、おもしろかったなと思ってもらえたら望外の幸せです。